主の祈り

申命記6章4〜9節
ルカによる福音書11章1〜4節
2005年6月19日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)何語であっても

 6月を青年月間といたしまして、今日と来週の日曜日は特別な礼拝をもちます。今日は教会の青年である大畑るみさんが証しをし、教会の青年と高校生の方々が、英語で主の祈り(マロット作)の歌を歌ってくださいました。私たちは、毎週の礼拝において、「主の祈り」を祈っていますので、教会にずっと来ている人であれば、恐らくその祈りの言葉を覚えておられることと思います。ですから、それが何語で唱えられても、何語で歌われても意味を知っているわけですから、大体わかります。「どういう意味なんだろう」というのではなくて、「今は、どの部分だろう」、と、考えるのではないでしょうか。私もポルトガル語であれば、そらんじて唱えることができます。

Pai nosso, que estas nos ceus,
Santificado seja o teu nome;
Venha o teu reino,
Seja feita a tua vondade, assim na terra como no ceu.
O pao nosso de cada dia nos da hoje;
E perdoa-nos as nossas dividas
assim como nos perdoamos
aos nossos devedores;
E nao nos deixes cair em tentacao,
mas livra-nos do mal;
Pois teu e o reino e o poder e a gloria, para sempre.
Amem

 私も何度か、キリスト教の世界大会の礼拝に出たことがあります。礼拝全体の進行は英語でなされることが多いですが、「主の祈り」になると、「それぞれ自分の国の言葉で唱えましょう」ということになります。そうすると、全く違うさまざまな言葉で祈られるのに、不思議に大体ペースが合うのですね。アーメンのところでぴたっとあうのです。
 使徒言行録の第2章にペンテコステの出来事が記されています。「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)とあります。私は、「主の祈り」が世界各地の言葉で同時に祈られながら、それぞれ同じことを祈り、心が通いあうというのは、まさにペンテコステだなと、よく思いました。
 エルサレムには、オリーブ山を登ったところに「主の祈りの教会」というのがありますが、その中の回廊の壁面には、世界の64カ国語で「主の祈り」が記されています。もちろん日本語もあります。そうしたものを見ると、この「主の祈り」こそ、まさに世界を結ぶ祈りだということを実感いたします。

(2)マタイ版とルカ版

 主の祈りのひとつひとつの祈りには、それぞれかけがえのない深い意味が込められていますが、今日はそのひとつひとつを取り上げるわけにはいきません。全体的なこと、そして幾つか大事なことを述べるに留めたいと思います。
 主の祈りは、聖書の中に2回出てきます。マタイ福音書の6章9節から13節と、本日読んでいただいたルカ福音書11章2節から4節です。
 マタイの方は、いわゆる山上の説教というイエス・キリストの一連の教えの一部として出てきます。「あなたがたは偽善者のように祈ってはならない」と言われました。人前で見せるために、パフォーマンスのように祈ってはならないということです。もう一つ、「異邦人のように祈ってはならない」。くどくどと祈るな。自分の願い事ばかり並べ立てるな、ということでした。「それではどう祈ればよいのか」ということで、主イエスご自身が、この簡潔な「主の祈り」を教えられたのでした。
 一方、ルカの方では少し違います。ルカの方では、イエス様が祈っておられるのを弟子たちが見て、弟子たちの方からイエス・キリストに尋ねるのです。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』」(1節)。

(3)言葉を教える教育

 祈りにも、信仰のスタイルにも、それぞれ流儀がありました。本家本元のユダヤ教でも、そうです。今日は旧約聖書の方は、申命記の6章を読んでいただきましたが、そこにはこう書いてありました。

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6:6〜9)。

 覚えきれない位たくさんあったのでしょう。それを一つ一つ心に刻め。この教育こそが、信仰の根幹にあったわけです。でもあまりにも多すぎると、どれが大事であるかわからなくなりますから、その中の最も大事なこと、基本方針とでもいうべき戒めが最初に置かれたのでした。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4)という言葉でした。
 恐らく洗礼者ヨハネは、そうした律法を踏まえながら、それをもっと簡潔にした祈りの言葉、祈りのお手本のようなものを持っていたのであろうと思います。主イエスが祈っておられたのを見た弟子たちも、「自分たちにもあのヨハネの祈りのような祈りのお手本をください」と、イエス様にお願いしたのでした。もしかすると、この時、弟子たちはイエス様のお祈りを、断片的にでも聞いていたのかも知れません。

(4)正しい電話のかけ方

 私たちもお祈りをします。特別な信仰をもたない人であっても、神社で手を合わせるということもあるでしょう。しかしそこで一体何を祈るのか。私たちは祈り方を教わらないでは、ただ自分の願い事を並べ立てて終わってしまうのではないでしょうか。「どうか希望の大学に合格しますように。」「どうかこのことが実現しますように。」もちろん、そうした一つ一つの願い事を、大事にしたらいいと思います。しかし祈りというのは、それだけではありません。それだけだと単なる願掛けです。私たちの独り言と変わらないかも知れない。祈る相手がわからない。どこに向かって、何を祈ればいいかわからない。まあ神様がおられるかどうかわからないけれども、一応、おられた時のために祈っておこう、なんていう気持ちになってしまいます。宛て先もわからないで、郵便を出すようなものです。
 創立75周年記念礼拝の説教で深町正信先生が、祈りを電話にたとえられました。
「英語では電話をかけることを『コール』といいますが、相手を呼ぶことです。父なる神様は私達それぞれの心の祈りの部屋の電話番号を知っておられるのです。したがって父なる神様の方から私達に電話をかけてこられるのです。弟子たちは、主イエス様に向かってお願いしました。『主よ、わたしたちにも祈りを教えてください』。すると、主イエスはこうお答になりました。『祈るときには、こう言いなさい。父よ』と。『まず呼びかけなさい』と、正しい電話のかけ方、祈りの作法を示してくださいました。」
 向こうは神様ですから、私たち一人一人の電話番号を知っておられて、間違いなくかけてこられるけれども、こちらからかけたい時はどうすればいいのか。それを弟子たちは尋ねたのです。そしてその電話のかけ方をイエス・キリストが教えてくださった。それが主の祈りだということができるでしょう。

(5)福音全体の要約

 テルトゥリアヌスという3世紀の神学者は、「主の祈りは福音全体の要約である」と言いました。つまり「キリスト教とは何かを知ろうと思えば、まず主の祈りを学ぶといい。大切なことは全部そこに含まれる」ということです。
 先ほど申し上げましたように、教会に来ている多くの人にとっては、何も考えなくても、次から次へと言葉が出てくるというものかも知れません。それほど主の祈りが親しいということは、一つには恵みであると思います。困難な世の中を生き抜く時に、主の祈りを知っているのは強い武具を身につけているようなものです。神様への電話番号を知っているということです。イエス・キリストの方から、「こう祈りなさい」と教えてくださった祈りであり、いわば「宝物」です。しかし逆に「それでは、私たちはその宝物の価値を一体どれほどわきまえているだろうか。その宝物を本当に宝物として取り扱っているだろうか」ということも考えなければなりません。案外、無造作に粗末に扱っているのではないでしょうか。ですから時に、主の祈りをゆっくり時間をかけて、一つ一つの祈りを反復するように、あるいは自分の言葉で展開しながら、祈っていくのも意味があろうかと思います。

(6)天にましますわれらの父よ

 ルカでは「父よ」だけですが、私たちが普段唱えているマタイ版では、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけます。この呼びかけは、神様がどういう方であるかをよく示しています。
(a)父よ
 まず神様は、私たちの「父」です。父という呼び方は旧約聖書にもありますが、それはあくまでイスラエル民族の「父」ということであり、しかも厳しく近寄りがたい存在としての「父」です。ところが天の父なる神様とイエス・キリストは、本当の親子として、主イエスは、神様のことを「アッバ」と呼ばれました。これは「パパ」「お父ちゃん」という子ども言葉です。それほど親しい交わりをもつお方、イエス・キリストが、私にも「父」と呼ぶようにと言ってくださったからこそ、私たちも「父よ」と呼ぶことが許されているのです。
(b)われらの
 次に「われらの」という言葉には、どういう意味があるのでしょうか。一つは「主イエスと私」としての「われら」です。私の傍らで、主イエスが同時にこの祈りを祈っておられます。いや本当は逆であって、主イエスがこの祈りを祈っておられるそばで、「私」も一緒に、主イエスに導かれて、主の祈りを祈ることが許されているのです。
 もう一つの意味は、横の広がりです。主の祈りは共同体の祈りです。私たちは、この祈りを一人で祈るのではありません。たとえ一人で祈る時でも、この祈りには私たちの家族が含まれています。私たちの国家が含まれている。私たちの世界が含まれている。その「われら」には、キリストを信じる人も、信じない人もいます。そうしたすべての人が、この祈りには含まれているのです。主の祈りには、何度も何度も「われら」という言葉が出てきますが、そのたびにそのことを思い起こすのです。
(c)天にまします
 最後に「天にまします」とは、どういうことでしょうか。今日私たちは、天が宇宙の彼方にはないことを知っています。私たちは、銀河系の果てまで行っても、神様に出会うことはできません(もちろん、「恐らく」ということです。先日、観た『コンタクト』という映画では、「この広い宇宙に、この地球にしか生物が住んでいないとすれば、神様はスペースを非常にもったいない使い方をしている」と言う言葉が出てきました。ですから、おられるかも知れませんが)。
 しかし少なくとも、この「天にまします」とは、そういう空間上のことではありません。それは、神が私たちの地上世界を超越したお方である、住むところが違うお方である、私たちのどんな想像をも超えたお方であるということを表しています。
 「私たちの理想の父」をも超えています。私たちが思い描くことのできる「理想の父」というのはたかが知れています。それさえもはるかに超えている。神は万物を創り、支配し、全世界を御手のうちにおかれ、私たちが決して近づくことができない方です。すべてのものをはるかに超えた崇高な方。「天にまします」というのは、そういうことを指しているのではないでしょうか。
 そうだとすれば、「天にましますわれらの父よ」とは、不思議な呼びかけです。神はすべてのものをはるかに超え、私たちが決して近づくことができないはずのお方であるのに、「私たちが『お父さん』と呼ぶことができる程に親しく、近くにおられることを表しているからです。この呼びかけを知っているというということは、神様がどういうお方であるかを知っているということであり、電話のかけ方を知っているということです。

(7)地球を包む祈り

 私たちは今ここで礼拝をしています。日本の国です。日本は、地球の中で日付変更線を越えた最初の国のひとつですから、これから日曜日が、この地球を一巡りいたします。世界中の国々で、日曜礼拝がもたれることになります。そのほとんどの礼拝で、この主の祈りが唱えられることでありましょう。もちろんそれぞれの国の言葉で、であります。そうであれば、これから一日経ちますと、「主の祈り」がすっぽりと地球全体を包み込んでいく。私はそういうイメージを思い浮かべるのです。主の祈りは、地球を包む祈りです。この祈りを唱えながら、私たちは、「御名があがめられるように。御国が来ますように。世界中の人々にパンが与えられますように。罪を許すことができますように。誘惑から逃れることができますように」と祈るのです。どうか、この祈りが本当の意味で、地球全体を包み込みますように、と祈るものであります。


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