命の広がり

〜ヨハネ福音書講解説教(48)〜
詩編67編1〜8節
ヨハネ福音書12章20〜26節
2005年2月13日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ギリシア人、イエスに会いに来る

 先週、2月9日(灰の水曜日)から40日間の受難節に入りました。私たちは、この受難節、ヨハネ福音書の12章から13章へと読み進めていきますが、受難節にふさわしい箇所が与えられたと思っています。
 今日のテキストはこのように始まります。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」(20節)。「祭り」とは、過越祭のことです。ここにギリシア人が登場するのは興味深いことです。彼らはただエルサレムへ観光に来たのではなく、「礼拝をする」ために来たということですから、恐らくユダヤ教に改宗したギリシア人たちであったのでしょう。しかしユダヤ教の枠の中では、自分たちはどこまで行っても二流のユダヤ教徒だという感じを持っていたのかも知れません。そこでイエス・キリストの福音に触れて、「これこそがユダヤ主義を超えた自分たちの求めていた教えだ」と思ったのではないでしょうか。
 彼らはまず、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ懇願に来ました。フィリポというのは、ギリシア風の名前だそうです。彼らは一番自分たちに身近に感じられるフィリポを選んで懇願したのかも知れません。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)。「お願いします」という言葉は、「キリエ」(主よ)という最上級の敬語であります。
 それを聞いたフィリポは、彼らをそのまま主イエスに紹介したのではなく、弟子の一人であるアンデレに相談し、アンデレと二人で、イエス・キリストにその旨伝えるのです。このフィリポとアンデレというのは、今回初登場ではありません。実は1章ですでに出ているのです。そして役回りが良く似ております。
 アンデレは、最初、洗礼者ヨハネの弟子であったのですが、イエス・キリストと出会ってその弟子となり、その翌日、兄弟であるシモン・ペトロを、イエス・キリストに引き合わすという大事な役回りを演じました(1:42)。
 一方、フィリポの方は、そのすぐ後に登場するのですが(1:43)、彼も弟子になった直後に、ナタナエルにそのことを話し、ナタナエルを、主イエスを紹介するのです。弟子になったらすぐに伝道を始めた人たちです。今日のところでも、ギリシア人たちをイエス・キリストに引き合わせるという役割を果たしました。
 「イエス様、何人かのギリシア人が先生にお会いしたいと言って来ておりますが、いかがいたしましょうか。」それを聞いて、イエス様が口にされたのが、今日の後半の大事な、そして有名な言葉です。

(2)栄光を受ける時

 主イエスはまず、「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と言われました。主イエスは、恐らくこの言葉を感慨をもって語られたのであろうと思います。それは弟子たちには意外なことであったかも知れませんが、歴史を現時点から振り返ってみれば、確かに大事な瞬間であったのだと思わされます。それはこの時が、福音がユダヤ人という枠を超えて、ギリシア人、異邦人へと広がっていく発端であったからです。それまでもサマリアの女に対してなど、イエス・キリストの福音はユダヤ人という枠を超えて伝わってはいるのですが、本当の異邦人伝道は、ここから始まっていったと言えるでしょう。
 ただし「栄光を受ける時」と言っても、この世的な「栄光」とはかなり違います。この世的視点で見れば、むしろこの前の箇所、つまり群衆がなつめやしの枝を振りながら、勝利の支配者としてイエスを歓迎したあの時が、最も「栄光」を受けた時であったと思います。ようやくこれまでの努力が報われて、世間の人にも認められるようになったという瞬間でした。
 そこから先はその「栄光」からどんどん落ちていくような話です。群衆の憎しみが増大し、つばをかけられ、茨の冠をかぶせられ、鞭打たれ、十字架にかけられて死んでいく。しかしながら、イエス・キリストは、それを「栄光を受ける時」とされたのでした。

(3)誰のために生きるか

 そうであるからこそ、これに続く言葉が意味をもってくるのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。これは、イエス・キリストの十字架上の死が決して空しく終わるものではないということ、やがてそこから新しい歴史が始まっていくのだということを指し示していると思います。
 このギリシア人たちが、直接、この言葉を聞いたのかどうかはわかりません。間接的にそれが伝えられたかも知れませんし、弟子たちと一緒にこの言葉を聞いたかも知れません。しかし彼らの来訪そのものが、まさしく新しい時代を指し示すものでありました。
 主イエスはさらに、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」(25節)と続けられました。これは誤解を招きやすい表現ですが、決して自殺を奨励している訳ではありません。「自分の命を愛する」というのは、それを第一として生きるような生き方、自分のために生きるような生き方、自己完結する生き方のことです。ただ生きることを目的にするのではなく、何のために生きるか、誰のために生きるのかということ。自分に与えられた命、自分に与えられた賜物、それは一体、何のために存在するか。自分のために生きるか、他者のために生きるか。それが問われているのです。イエス・キリストは徹底して、他者のために生きた方でありました。

(4)『カラマーゾフの兄弟』

 ご承知のように、この「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉は、古来多くの人々に大きな影響を与えてきました。その中で私がいつも思い起こすのは、ドストエフスキーが、最後の未完の小説、『カラマーゾフの兄弟』の扉にこの言葉を記していることです。私は高校生の頃、最初に読んで感銘を受け、それ以来約10年に一度、3回位読みました。読むたびに新しいことを教えられる近代文学の金字塔です。阿佐ヶ谷教会の大宮溥先生は、「『カラマーゾフの兄弟』は現代の聖書だ」とおっしゃっていました。確かにそういうにふさわしい小説だと思います。
 ちなみにドストエフスキーのお墓(ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院にあるそうですが)の墓碑にもこの聖句が刻まれているそうです。
 またカラマーゾフ三兄弟の長男のドミートリーという名前も、この「一粒の麦」と関係があるようです。この名前はギリシア神話の女神デーメーテールから発していますが、デーメーテールとは母なる大地の神、「豊穣と農業の女神」です。ギリシア神話では、冥界の王に連れ去られた娘ペルセポネー(穀物の女神)を捜し求めて、母デーメーテールは地上をさまよいます。
 さてこの聖句が、この小説の中でどういう意味を持っているのか。なかなか暗示的、示唆的ですので、ある事柄だけを取り上げることはできないでしょう。
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の第5編「Pro et Contra」の中で、アリョーシャに対するイワンの言葉を通して、この世の不条理な姿を、訴えかけております。ドミートリー、イワン、アリョーシャ、この三兄弟すべてが、ドストエフスキーの分身のような面があるのですが、このところでは次男であるイワンの口を通して、三男アリョーシャに向かって語るのです。何の罪もない子どもが誰かに殺された。それは一体どういう意味があるのか。恐らく当時、そういう事件があったのでしょう。現代でも起きていることです。

 「いいかい、すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和をあがなうためだとしても、なんのために子供がそこへ引き合いに出されるのだ、……どういうわけで、子供までが材料の中へはいって、どこの馬の骨だかわからないやつのために、未来の調和の肥やしにならなけりゃならないのだろう?」
 「仮にだね、おまえが最後において人間を幸福にし、かつ幸福と安静をあたえる目的を持って、人類の運命の塔を築いている者として、このためにはただ一つのちっぽけな生き物を、……例のいたいけなこぶしを固めて自分の胸を打った女の子でもいい、……ぜがひでも苦しめなくてはならない、この子供のあがなわれざる涙の上でなければ、その塔を建てることができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承服するかね?
 それから、世界の人間が小さき受難者の、償われざる血潮の上に建てられた幸福を甘受して、永久に幸福を楽しむだろうというような想念を、平然として許容することができるかい?」
 「ねえアリョーシャ、ぼくは神を承認しないのじゃない、ただ『調和』の入場券をつつしんでお返しするだけだ」

 イワンというのは無神論者ですが、信仰深いアリョーシャに向かって、そういう問いを発するのです。ドストエフスキーの中に、こうした両面があって、小説が成り立っているわけですが、今日の私たちにとっても、切実な、そして神様に対する本気の問いではないかと思わされます。
 イワンは声を上げることもできない子供にかわってそのように訴えるのです。それに続く第6編「大審問官」という劇中劇のような物語の中で、それを超える応答のようなことが記されているように思いますが、今日はこのイワンの問いかけにとどめたいと思います。
 私は、ドストエフスキーのこの言葉を読みながら、贖罪ということを改めて思わされました。この「一粒の麦」のたとえは、第一義的には、イエス・キリストの死、それがやがて贖いという意味をもってくるということでしょうが、それに留まらない意味をもっているのではないかと思うのです。
 ドストエフスキーは「一粒の麦」というのを、ただイエス・キリストの中にだけ見るのではなくて、反対意見のような装いをもっていますが、その子どもの死もそういう贖いという意味を持っているのではないかということを暗示しているように思いました。そしてそのことは、キング牧師の有名な「自ら招いたのではない苦難は贖罪的である」という思想につながっていくものではないでしょうか。

(5)日野原重明氏の活動の原点

 さらに、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の扉に書かれたこの聖句をめぐっては、もうひとつ有名なエピソードがあります。
 聖路加病院の院長である日野原重明氏は、かの「よど号ハイジャック事件」の時の乗客(人質)でありました。これから何十時間になるかわからないというので、犯人側から、本や雑誌を乗客に貸し出すという提案がなされました。それらの本の中に『カラマーゾフの兄弟』があり、日野原先生は「それを貸してくれ」と言って、借りられました。「ああ、これでもうよかった。これを読んでいれば、何日かこの不安から逃れられる」と思われたそうです。本の扉を開いたとたんに、この「一粒の麦」の聖句が目に飛び込んできました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」日野原先生は、学生時代から、よくドストエフスキーを読んでおられ、『カラマーゾフの兄弟』もすでに読んでおられたそうですが、「こういうことがテーマであったのか」と、改めて思われたそうです。死を意識した時間であったので、一層そのことを深く感じられたのでしょう。そして、もしも生かされてここから帰ることができたならば、この命を人のために用いようと決心なさったそうです。この出来事が、その後の日野原先生の活動の原点となりました。彼は、そのことを、何度も何度もいろんなところで語っておられます。
 これは不思議な連鎖だと思いました。聖句がある人を生かし、そしてその人の命がまた別の人を生かしていくのです。ドストエフスキー自身も、一粒の麦であったのではないでしょうか。

(6)「私に従え」

 主イエスは、今日の言葉の最後をこういう風に結んでおられます。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)。

 ですから、「一粒の麦」で示されるものは、主イエスご自身であると同時に、それに従う者の生き方でもあるのだと思います。
 命というのは、一つが失われて次のものへと生まれ変わるのだということを、このたとえは示しているようですが、私は何か命のルーツであるイエス・キリストがおられて、その命が次から次へと広がっていくようなことを思うのです。その命に私たちも連なるように指し示されている。そしてそこで生かされたものがまた、他者を生かしてくのです。
 受難節に、深くイエス・キリストの生と死、そしてそれに従う者の生き方を深く心に覚えたいと思います。


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