この時のために来た

〜ヨハネ福音書講解説教(49)〜
詩編27編1〜4節
ヨハネ福音書12章27〜36節
2005年2月20日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ヨハネ版、ゲツセマネの祈り

 先週、私たちは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒の麦のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(24節)という有名な御言葉に耳を傾けました。これは直接的には、主イエス御自身の十字架の死を指し示した言葉でありましょう。さらにそれに続けて、

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」(25、26節)

と、厳しい言葉を語られました。
 今日の言葉は、それに続くものです。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」(27、28節)。

 いかがでしょうか。前半の言葉は、これまでの言葉と随分トーンが違います。あの力強さ、厳しさが後退してしまったかのようです。ちなみに文学的な翻訳で知られる柳生直行訳『聖書』では、こう訳されています。

「今わたしの心は苦悩に突き動かされている。わたしは今、なんと言うべきなのか。『父よ、この試練の時からわたしを救いたまえ』と祈るべきなのか。いや、そうはいかない。わたしは苦しみを受けるために、この世に来たのだから。父よ、願わくはあなたの栄光があらわれますように。」

 この言葉は、ヨハネ版ゲツセマネの祈りだと言われます。ゲツセマネの祈りというのは、主イエスが十字架にかかられる前夜、ゲツセマネの園で、夜を徹して祈られた祈りで、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されています。ヨハネ福音書にはありません。若干の言葉の違いはありますが、例えば、マタイ福音書ではこうなっています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)。

(2)私たちと同じ人間イエス

 私たちは、「イエス・キリストは神の子だから、自分が一粒の麦として死ぬという定めも、超然と受け止めておられたのだろう」と思いがちですが、決してそうではなかったということが、ここに示されていると思います。イエス・キリストはまことの神であると同時に、まことの人でもありました。まことの人として、私たちと同じ立場に立たれたというのは、そういうことを含んでいるのです。苦しみも悲しみもなく、超然としているというのはまことの人ではありません。
 ヘブライ人への手紙には、こう記されています。

「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。

 ただ「罪を犯されなかった」という点だけは違うけれども、あとはすべて私たちと同じ経験をされた。試練にも遭われた。これまでの『讃美歌』の532番「ひとたびは死にし身も」は、私の愛唱歌でもありましたが、2節はこういう歌詞でした。

「主の受けぬこころみも
主の知らぬ悲しみも
うつし世にあらじかし
いずこにもみあと見ゆ」

 私たちは、時々「どうして私がこんな試練を受けなければならないのか。」「どうしてこんな悲しい思いをしなければならないのか」と思うことがあるのではないでしょうか。しかしどんな試練も、どんな悲しみも、どんな苦しみも、どんな迫害も、どんな病も、イエス・キリストもすでに経験しておられた。「自分だけ、どうして」と思っていたけれども、そこにはイエス様の通られた跡があった、というのです。
 この時、主イエスが苦しまれたのは、単に死ぬのがこわかったということではなかったと思います。今自分の目の前に備えられている道が、本当に父なる神様の御心なのだろうか。そのことに躊躇があったのではないでしょうか。悪魔がそばでささやきます。「本当にそれが神様の考えなのか。そんなのばかげているじゃないか。神の子だったら、もっと堂々と相手にそのことを知らせてやればいいじゃないか。」「父よ、わたしをこの時から救ってください」というのは、そのような悪魔の誘惑から救ってください、ということでもあったのでしょう。しかしイエス・キリストは、その試練、誘惑に負けてしまったのではなく、それに打ち勝っていくのです。

(3)大きな、重い「しかし」

 主イエスは、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言われました。この「しかし」は大きな、そして重い「しかし」です。もしもここで、主イエスが十字架にかかるのをやめておられたら、たとえ主イエスがどんなに立派な言葉を残し、どんなに立派なわざをなさったとしても、私たちとの間に本質的な関係はなくなっていました。イエスという一人の偉大な人物ということになっていたでしょう。しかし、まさにこの時のためにイエス・キリストは来られたのでした。つまり、主イエスの生と死の意義は、ただこの一点、十字架という一点に集約されていくのです。そのようにして、「父よ、御名の栄光を現してください」(28節)と祈りを続けられました。
 「父よ、わたしをこの時から救ってください」「父よ、御名の栄光を現してください」という二つの祈りは、共に「主の祈り」をほうふつとさせるものです。
 その時、天から声が聞こえてきます。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)。この「既に栄光を現した」というのが、具体的に何のこと、いつのことを指しているのかははっきりしません。アウグスティヌスは、それは何よりもまず「世界の創造」のことだとした上で、同時に、「主が処女から生まれたとき、能力(ちから)を発揮したとき、星による天の徴に導かれた占星術の学者から礼拝されたとき、聖霊に満たされた聖徒たちに承認されたとき、鳩のかたちで御霊が降って啓示されたとき、天から声がひびきわたって言明されたとき、山上で変貌されたとき、多くの奇跡を行ったとき、多くの人をいやし、清められたとき、ごくわずかなパンで非常に多くの群衆を養ったとき、嵐や荒波に命じたとき、死者を生き返らせたとき」という風に、イエス・キリストの生涯の出来事を数え上げています。
 しかしそれらをすべてひっくるめても、それに匹敵するようなこと、いやそれを超えることが今起きようとしている。それがイエス・キリストの十字架でありました。

(4)ヨハネ版、山上の変貌

 そばにいたある人たちは、「雷が鳴った」と言い、ほかの人たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いました(29節)。神様は雷鳴の中から人間に語りかけると言われていました。
 この記事も、マタイ、マルコ、ルカに記されている「山上の変貌」のヨハネ版だと言われます。例えば、マタイ福音書では17章にそれが出ていますが、イエス・キリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて山に登った時に、イエス・キリストの姿が真っ白に輝いたというのです。そして雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえてきて、イエス・キリストが一体誰かということが示されるのです。
 イエス・キリストは、人の子であり、神の子でありました。地上における30年の生涯においては、神の子としての姿は、人の子としての姿の中に隠されていました。復活において、それが露わな形で出てくるのですが、「山上の変貌」の出来事は、その神の子としての姿がちらりと垣間見えた出来事であったと言うことができるでしょう。イエス・キリストは復活の時に再び真っ白な姿で現れるのですが、ここでは3人の弟子たちだけが、その栄光の姿を、前もって垣間見ることが許されたのでした。
 この時も、あの山上の変貌の時と同じように、天から声が聞こえてきたのでしたが、その意味を悟った人とそうでない人があったのです。同じことを経験していても、その意味がわかる人と、全くわからない人がいることを思わされます。

(5)あなたがたのため

 イエス・キリストはその人たちの反応に答えて、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」(30節)と言われました。これから起きようとしている十字架の死という出来事が、わたしたちのためであるということが知らされたのです。
 さらに「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)と語られます。ここで「地上から上げられる」というのは、復活よりも十字架を指し示しています。ですから「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(33節)という注が付けられているのです。
 群衆はイエス・キリストの言葉を聞いても、何のことであるかわからなかったようです。

「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その人の子とはだれのことですか」(34節)

 と問い返しました。これまでにもありましたように、ここでも無理解によるすれ違いが起こっています。
 これまでのところでは、主イエスがここでそれを退けながら、その深い意味について述べられることが多かったのですが、ここではもうそれに答えることもされません。むしろ議論をするよりも、今何をするべきなのかということが示されたのでした。

「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、どこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(35〜36節)。

 求められているのは、「光あるうちに、光を信じ、光の中を歩む」という実践的行為なのです。

(6)主はわたしの光

 今日は、このヨハネ福音書にあわせて、詩編27編の最初の部分を読んでいただきました。

「主はわたしの光、わたしの救い
  わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
  わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむ者が迫り
わたしの肉を食い尽くそうとするが
わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
  よろめき倒れるであろう。
彼らがわたしに対して陣を敷いても
  わたしの心は恐れない、
わたしに向かって戦いを挑んで来ても
  わたしには確信がある。」
(詩編27編1〜3節)

 私は、これを読みながら、これはまず主イエスご自身の心であると思いました。
 主イエスも、この詩編の詩人と同じ心で、「父なる神こそ、わたしの光だ、わたしの救いだ」と思っておられたに違いありません。そうした確信の中で、「父よ、わたしを救ってください」と祈りながら、揺れ動く心が一つに定まっていった。さまざまな誘惑、これから受ける試練、迫害を前に、動揺する心が神様の方に集中して行ったのではないでしょうか。「父よ、あなたの御名の栄光を現してください。」詩編の詩人はこう続けます。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。」(4節)。

 この言葉も、まさに主イエスの心を歌っているようです。しかしそれと同時に、この詩編は、私たちの生きるべき道、私たちの心でもあります。
 「主はわたしの光、わたしの救い」というのは、父なる神であると同時に、イエス・キリストを指し示していると思います。主イエスこそが私の光であり、主イエスこそが私の救いだ。
 その主イエスは、私がここでうろたえているのと同じように、「心騒ぐ」経験をなさった。その方が私と共におられるから、私は何があっても恐れる必要はない。ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、イエス・キリストと共に主の家に宿り、イエス・キリストと共に、父なる神様を仰ぎ望んで朝を迎えよう。
 私たちは、主イエスの生き様を通して、同じ方向を向いて、その家に住むことを促されていることを思います。

(7)「見よ、今は恵みの時」

 光あるうちに光の中を歩め。光が取り去られる日が来る。暗闇がやってくる。その暗闇に追いつかれないようにせよ。私たちは、今ここに招かれて、この礼拝に来ています。これは一つの「時」であります。使徒パウロは言いました。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(コリント二6:2、口語訳)。私たちはその「時」を見失わないように、やり過ごさないようにしたいと思います。いつ私たちに暗闇が迫ってきて、覆い尽くされそうになるかも知れません。そうならないうちに、まさにその「光」と共にある生活を形づくっていきましょう。


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