信仰弱き者をも

〜ヨハネ福音書講解説教(50)〜
イザヤ書53章1〜8節
ヨハネ福音書12章36b〜50節
2005年3月6日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)走馬灯のように

 ヨハネ福音書はこの12章をもって前半部分を終えることになります。今日は、二つの単元の部分を合わせて読んでいただきましたが、その後半の44節以下は、これまでさまざまなところでイエス・キリストが語ってこられた言葉の総まとめのような部分であります。
 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(44〜45節)。これまでもご自分と、イエス・キリストを遣わされた父なる神が一体であることを述べてこられましたが(8:16、10:30等)、ここでもう一度そのことが確認されるのです。
 「わたしを信じる者が誰も暗闇の中にとどまることがないように、わたしは光として世に来た」(46節)。8章12節では、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られましたし、前回の部分でも「光」について言及されました(12:35)。
 「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(47節)と続きます。これは、有名な3章16〜17節をほうふつとさせるものではないでしょうか。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 この後の言葉も、これまでのどこかで同じような言葉がすでに語られていました。これまでのイエス・キリストの言葉が、走馬灯のように現れてきているのです。

(2)人々は、結局信じなかった

 今日お読みいただいた最初の部分には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」(36節)とあります。この時を境にして、イエス・キリストは、人前から姿を隠されたのです。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」(37節)。「このように」ということで、ヨハネ福音書記者は、これまでのイエス・キリストの活動の全体(2〜12章)を振り返っているのでしょう。
 イエス・キリストはこれまで六つのしるし(奇跡)をされました。最初のしるしは、カナの婚礼の奇跡でした(2:1〜11)。役人の息子のいやし(4:43〜54)。ベトサダの池でのいやし(5:1〜9)、五千人の給食(6:1〜15)、盲人のいやし(9:1〜7)、そしてラザロの復活(11:38〜44)の六つです。あるいはこれに水上歩行(6:16〜21)を加えると七つになります。そのようにして、イエス・キリストはご自分が誰であるかを示されたにもかかわらず、結局、人々はイエス・キリストを受け入れなかった。この世的に言えば、イエス・キリストのやって来られたことは全部、失敗に終わったということになるでしょうか。
 このことは、当時の人々に限らず、私たちの心の頑なさを示しているようです。この次にイエス・キリストが人前に現れるのは、裁判にかけられる時です。そこで群衆は、こぞってイエス・キリストを「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫ぶようになるのです(ヨハネ19:15)。

(3)苦難のしもべ

 ヨハネ福音書記者は、それをイザヤ書53章1節の言葉に重ね合わせました。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」(38節)
 イザヤ書53章1節以下に記されている「苦難のしもべ」の姿は、旧約聖書の中で、最もよくイエス・キリストの姿を預言した言葉であると言われます。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしに顔を隠し、
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのは
わたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。」
(イザヤ53:2〜4)

 ヨハネ福音書はもう一つ、イザヤ書の言葉として、次のように引用しています。こちらは、イザヤ書6章10節の言葉です。

「神は彼らの目を見えなくし、
その心をかたくなにされた。
こうして、彼らは目で見ることなく、
心で悟らず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない」(40節)

 このことは、私たち人間に責任がないということではありません。神様の言葉、イエス・キリストの言葉は、その本性をあらわにする様な働きがあるということでしょう。だからそれを受け入れるか、拒否するか、人を二つに分けるのではないでしょうか。それは私たちの責任の中で行われることなのです。

(4)光あるうちに

 前回の箇所の最後で、イエス・キリストは、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」(35節)と語られました。私たちは、光あるうちに、光がはっきり見えているうちに、しっかりと光をつかまなければなりません。
 時があるのです。時代に波がありますし、私たちの人生にも波があります。明るい時代があり、暗い時代がある。ひとりひとりの人生にも明るい時があり、暗い時がある。平穏な時があり、困難な時がある。私たちはさまざまな時の中を生きているのです。
 もっとも平穏な時、困難の少ない時が、光がある時というわけでもありません。ここで言う「光」というのは、この世の「光」のことではないからです。端的にいえば、イエス・キリストというお方が光そのものです。先ほど述べましたようにイエス・キリストご自身が「わたしは光として世に来た」(46節)とはっきり語られました。
 光が見える、見えないというのは、一種の状態でしょう。イエス様を素直に信じられる時と、そうでない時があります。しかしその光をしっかりと手にするということは、状態ではなく決断です。私たちは、この光を自分のうちにお迎えする。この光と共に歩むという決断をするのです。その信仰の決断をする時に、それが自分の中で積極的な意味を持ってくるようになるのです。

(5)信仰は決断

 そのチャンスはいつもあるわけではありません。ちょうど電車が向こうからやってくるようなものでしょうか。それが自分の前に来た時に、私たちは無意識であるかも知れませんが、それに乗るか乗らないかの決断をしています。そこで乗らなければ、電車は自分の前から過ぎ去ってしまいます。次の電車まで待つという決断をすることもあるでしょう。しかしもう来ないかも知れないのです。
 困難の中でイエス・キリストに救いを求めて、その時は一条の光がそこに見えていた。しかしその困難が過ぎ去った時には、他にもいろんな光が見えてきた。そうすると、逆にイエス・キリストの方の光がくすんで見えなくなってしまった、ということはしばしばあることです。
 今年のイースターに向けて3人の方々が「洗礼を受けたい」、また一人の幼児洗礼を受けた方が「信仰告白をしたい」と申し出られました。今日はこの礼拝の直後に、長老会で試問会といういわゆる面接試験のようなことが行われます。試問会と言っても、何も難しい聖書の知識を問うわけではありません。そんな質問をしたら、長老さんだって、ちょっとあやしいかも知れませんし、あるいは牧師だってパスしないかも知れません。そう言うことが問われるわけではないのです。直前にこんなことを言っていいのかどうかわかりませんが、試験になぞらえて「傾向と対策」のようなことを申しあげますと、そこで問われるのは非常に単純なことです。それは、「イエス・キリストを自分の光と信じますか」ということです。あるいは「イエス・キリストを自分の光として受け入れますか」ということです。これは非常に単純なことです。単純だけれども、ごまかすことができません。「あれか、これか」「電車に乗るか、乗らないか」、そういうことなのです。
 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と言いました。心でイエス・キリストを信じることと、口でそれを言い表すことの両方が求められているのです。

(6)幼児洗礼と信仰告白

 ちなみに幼児洗礼を受けた方が、信仰告白をすると申し上げましたが、幼児洗礼の場合には、大人の洗礼の場合と順序が逆です。大人の洗礼の場合には本人が信仰の告白をし、それに基づいて洗礼が授けられるのですが、子どもの洗礼の場合には、親の信仰と「その子を信仰をもって育てる」という親の決意に基づいて洗礼が授けられます。ローマ・カトリック教会や聖公会、そして私たちの伝統であるメソジスト教会では、この幼児洗礼を大事にしてまいりました。それはむしろ「親の責任だ」と考えられてきました。神学的には、「恵みの先行」と言います。人気が先行するという場合の先行です。本人の信仰よりも、神様の恵みが先に立っているのです。恵みによって、「この子も神の国に入れられる」と、先にしるしがつけられる。そしてある年齢、自分のことを自分で考えられるようになった時に、自分の口で信仰告白をしなければならない。親の信仰から本人の信仰へとバトンタッチする。そこで責任ある一人前のクリスチャンとして歩み始めるということになるのです。

(7)イエスの祈りの中で

 「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」(42節)とあります。この人たちは、心では信じたのだけれども、口で言い表すことをためらいました。「会堂から追放される」というのは、そのコミュニティーから追放されるということ、村八分にされるということです。「彼らは、神からの誉れよりも、人間の誉れの方を好んだのである」(43節)。彼らには、地位と財産と信用、つまり「人間の誉れ」がありました。その「人間の誉れ」を捨ててまでイエス・キリストに従って歩む決断はできなかったのです。
 この議員たちの気持もわかるような気がいたします。古代のクリスチャンたちは逆風の中を生きてきました。それは現代でもあります。「自分はキリスト者だ」と告白すると、大きな迫害を受ける。そうした中で、心の中では信じているけれども、それをなかなか口で言い表すことができない。順風の中にいる人間が、そうした人たちを裁くようなことはできませんし、してはならないでしょう。
 この時告白することのできなかった人たちの中から、イエス様が十字架の上で息を引き取られた後に「その遺体を引き取りたい」と願い出る人たちが出てきます。アリマタヤのヨセフと、ニコデモです(ヨハネ19:38、39)。後ろの方から、そっとくっついて行った人たち、あるいはキリスト教「シンパ」のような形で、じっと見守っていた人たちでした。しかし最後の「ここぞ」というところで、大事な役割を果たすようになるのです。「神様のなさることには時がある」ということを思います。
 イエス・キリストは「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(47節)と語られました。
信仰の弱さ、挫折。それはやがてはすべての弟子たちに及んでいきます。「わたしこそクリスチャン」と言っている者も、最後にはイエス・キリストを見捨てて逃げていくのです。その典型が一番弟子のペトロでありました。しかし、主イエスはそのペトロのために「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:23)と励まされました。信仰の弱い者、告白するのをためらっているような者をも、主イエスは全部受け入れて、そのために十字架にかかられたのです。
 もしも「ああそれならば信仰告白をしなくてもいいのだ」と思うならば、それは事柄の本当の重さを理解していないのでしょう。そうではなく、そのようなお方、私の状態如何にかかわらず、私を受け入れてくださっている方であるからこそ、この方に従っていきます。救い主と受け入れて、その中を歩んで生きます。そのような決断をしたいと思います。すでに信仰の告白をし、クリスチャンとして歩んでいる人も、弱さの中に舞い戻ってしまうものですから、その都度、信仰を告白して、イエス・キリストを受け入れていきましょう。聖餐式はそのために備えられているものです。


HOMEへ戻る