身をかがめるイエス

〜ヨハネ福音書講解説教(51)〜
ホセア書11章1〜4節
ヨハネ福音書13章1〜17節
2005年3月13日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)究極の愛

 今日から、ヨハネ福音書の第13章に入ります。ヨハネ福音書全体を二つに分けるとすれば、ここからが後半になります。今日の箇所はイエス・キリストの地上での最後の夜の出来事です。しかしここからまだ後半部分と呼べる程に、かなりの分量があるのです。福音書というのは、もともと単なるイエス・キリストの伝記ではありません。その十字架と復活について詳しく述べているのですが、ヨハネ福音書は、その最後の部分にとりわけ多くのページを割いているということがわかります。
 13章は、このように始まっています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。
 この言葉は、ヨハネ福音書後半部分全体の序文のようです。いよいよその「時」が来たことを悟られたのでした。それは栄光を現す時、しかしそれはこの世の栄光の時ではなく、イエス・キリストが一粒の麦として死なれる、十字架の時でありました。
 前の口語訳聖書は「この上なく」というところを「最後まで」と訳していました。「どこまでも」「徹底的に」と訳すこともできます。究極の愛の姿勢です。弟子たちは、これから主イエスのもとから去ってしまいます。まずこの直後にイスカリオテのユダが去ります。そして一人消え、二人消えして、最後には一番弟子のペトロも去ってしまうのです。ペトロは「他の人はどうあれ、自分はどこまでもあなたに従います」と宣言した弟子でした。それでも去ってしまうことがある。人間の愛には限界があることを思わされます。どんなに誓っても、その愛を貫くことができない。しかしイエス・キリストの愛は違っていました。「この上なく」「最後まで」愛し抜かれたのでした。今日の物語、イエス・キリストが弟子たちの足を洗うという物語は、そのイエス・キリストの「究極の愛」の姿をよくあらわしていると思います。

(2)「謙遜」という名の傲慢

 主イエスは食事の席で突然立ち上がり、上着を脱いで、手ぬぐいを腰にまとわれました。そしてたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、その足を一つ一つ手ぬぐいで丁寧に拭かれました。主イエスが最初の弟子の足を洗われた時、その弟子が一体どういう反応をしたのか、聖書には書いてありません。何をなさっているのかわけがわからず、唖然としていたのではないかと想像いたします。
 当時の習慣としては、誰かが家に入った時に、最初にその人の足を洗うのは奴隷の仕事であったと言われます。しかし今、自分たちの先生である主イエスが、自分たちの目の前にかがみこんで、足を洗い、それを手ぬぐいで拭かれる。しかもこの時は食事の最中です。家に到着した時ではありません。今頃になって、しかも先生が。一体これはどうしたことか。「先生、お気は確かでしょうか」。そのような気持ではなかったでしょうか。
 ペトロのところまで来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(6節)、「わたしの足など決して洗わないでください」(8節)と言いました。何だか居心地の悪い思いをしたのでしょう。「そんな畏れ多いことはとんでもございません。」
 私はこの時のペトロの気持がよくわかる気がします。人に自分の足を差し出すのは恥ずかしいことです。私は、ニューヨークにいました時に、ブロードウェイ・プレスビテリアン・チャーチという教会に通っていましたが、受難週の洗足木曜日には、タオルと洗面器をもって教会に集まる習慣がありました。二人一組になって、互いに足を洗いあうのです。何だかばつが悪い。早く終わらないかと思いました。あんまり汚いと恥ずかしいので、あらかじめ家で足を洗っていくこともありました。
 ただこの時、主イエスは、こう言われました。「わたしのしていることは、今あなたにはわからないが、後で、わかるようになる」(7節)。「もしわたしがあなたを洗わないと、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。ペトロは謙遜の気持から「決して洗わないでください」と言ったのかも知れませんが、それは「謙遜」という名の傲慢と言えようかと思います。自分の足は、主イエスに洗っていただく必要がないということを意味しているからです。
 私たちは、それぞれ自分の醜い部分、汚い部分、人目に触れさせたくない部分を誰でも持っているのではないでしょうか。そしてそこのところは、自分で何とかしたいと考える。しかしそれは自分のことは自分で解決できるという考えに基づいているものです。信仰をもつことと信仰をもたないことの違いは、まさにそこにあると言うこともできるでしょう。

(3)神様と出会う場所

 森有正という人が、「アブラハムの信仰」という講演の中でこう語っています。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(『土の器に』p.21)

 私たちとイエス様のお付き合いは、そこでそこ、最も深い関係に入るということを、この言葉はよく示していると思います。この森有正の言葉は、教会の交わりという横の関係を否定しているように聞こえかねませんが、そういうことではないでしょう。
 むしろ教会の交わりも、こうしたことを踏まえて考えていかなければならないと思います。教会に初めて来た人は、教会というところは何か清い人の集まり、聖人の集まり、という風に思うかも知れません。教会に来ている私たち自身も、恥ずかしい部分は隠して、いいところだけを見せて、表面的な交わりをしているということもあるかも知れません。しかしそれでは、偽善的になりがちです。教会というところはむしろ罪人の集まりです。しかしルターの言葉を用いて、より正確に言うならば、「赦された罪人」の集まりです。私たちは罪をもったままでイエス様の前に出ることが赦される。そしてそのあるがままの私たちを、イエス様は受け入れてくださるのです。教会とは、そういう場所なのです。

(4)身をかがめて食べさせた

 この時、主イエスは弟子たちの前に身をかがめられました。これは、イエス・キリストの生涯全体を象徴する姿でもあります。今日は、旧約聖書の方は、ホセア書11章の言葉を読みました。旧約聖書の中で、「神の愛」がどういうものであるかということを、最もよく示している箇所です。
 この11章は、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」という言葉で始まります。イスラエルの民は、神様に背いて神様から離れていきます。しかし神様の方は、彼らがどんなに離れて行こうとも、その民を、どこまでも、最後まで、この上なく、徹底して愛し抜かれるのです。
 4節にこういう言葉があります。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎からくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた」(ホセア11:4)。
 人間と神様ではスケールが違います。生きる世界が違う。ですからそれが一つになるためには、大きい方が小さい方に体を合わさなければならない。お母さんは子どもにご飯をたべさせるために、同じ目線になるように身をかがめます。それと同じように神様は身をかがめて食べさせられたというのです。この神様がイスラエルの民のために、身をかがめて食べさせる姿、それこそイエス・キリストが、人間の姿になってこの世界に来られたということを象徴しているのではないでしょうか。
 フィリピの信徒への手紙にこういう言葉があります。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6〜8)。

 この言葉は、弟子たちの足を洗うイエス・キリストに通じるものです。「人間の姿」になるだけではなく、「僕の姿」にまでなられた。同じ目線になることよりも、もう一段低く身をかがめられたのです。下から仕える格好です。

(5)後で分かるとは

 ペトロは、そのイエス・キリストの前に足を投げ出しながら、「わたしの足など決して洗わないでください」とお断りしようとしました。しかし主イエスは、その言葉を退けて、ペトロの足をも洗われるのです。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と言われました。これはどういうことでしょうか。主イエスは、すべての弟子たちの足を洗われた後で、説明と勧めをなさいます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14〜15節)。「後で」とは、そのことを示しているということもできるかも知れません。
 しかし弟子たちはそれを聞いても、まだわからなかったのです。ですから、この「後で、分かるようになる」というのは、もっともっとずっと先、イエス・キリストが十字架で、復活される。その後のことなのでしょう。
 今は、何でも早分かりの時代です。スピードが問われる。頭の回転の早い人が、頭のいい人とされます。株を買うにしても何にしても、速攻でどんどんやっていくような時代です。しかし本当に大事なことというのは、時間をかけてしないと、分からないものではないでしょうか。聖書の言葉というのも、そういう面があります。最初に聞いた時にはどういうことかわからなかったけれども、年齢を重ねていくうちに、だんだんとわかってくるということがあるのではないでしょうか。あるいはそれなりにわかっていたつもりでも、もっと深い意味があったことを知る、「身をもって知る」ということがあるのです。

(6)洗礼と聖餐

 ペトロは、イエス・キリストの言葉を聞いた後で、こう言いました。「主よ、足だけではなく、手も頭も」(9節)。イエス様がせっかく足を洗ってくださるのであれば、ついでに手も頭も洗っていただきたい。少しコミカルな、ペトロらしい応答であります。しかしイエス・キリストは、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(10節)とお答えになりました。
 イエス様の愛のわざは私たちを生かすのに十分であるのに、私たちはまだ何か足りないと思う。何かそこに付け加えたいと思う。これはこれで、私たちの不信仰を示していると思います。
 また宗教改革者のカルヴァンは、この言葉は、私たちの洗礼と聖餐の関係を象徴していると言いました。洗礼というのは、一生において一回限りで、生涯有効なものです。自分が洗礼を受けた時には十分理解していなかったから、もう一回洗礼を受け直して、クリスチャンとしてやり直したいと思われる方があるかも知れませんが、そうする必要はないのです。私たちの思いに関係なく、洗礼は一度限りで、ずっと有効なのです。それで足りないならば、結局、何度でも洗礼を受け直さなければならなくなるでしょう。
 信仰を刷新して、新たになるというのはむしろ聖餐式の役目です。全身を洗われた後で、その都度その都度、足を洗っていただくように、私たちは聖餐によって、いつも新たにイエス様をお迎えして、歩み始めるのです。

(7)仕え合う共同体

 さて、この行為の後で、主イエスは立ち上がってこのように言われました。

「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14〜15節)。

 私たちは、イエス様のこの模範を受け入れて、イエス様が私たちに何をしてくださったかを思い起こしながら、そのイエス・キリストに従うものとなりたいと思います。教会というのは、イエス様が私たちを受け入れてくださったように、お互いに受け入れあう共同体であります。
 「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(16〜17節)。大きなこと、イエス様以上のことが求められている訳ではありません。イエス様にならって、お互いに仕え合いって共に歩む者となりましょう。


HOMEへ戻る