夜の出来事

〜ヨハネ福音書講解説教(52)〜
詩編41編1〜14節
ヨハネ福音書13章18〜30節
2005年3月20日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)映画『パッション』

 本日は、棕櫚の主日であり、今週は受難週であります。
 私は、先週ようやく、昨年話題になりました『パッション』という映画をビデオで観ました。ちょうど昨年のこの時期にアメリカその他で公開されまして、賛否両論が湧き上がった映画です。受難節には、大勢の人が『パッション』のビデオを借りるのかなと思いましたが、日本は受難節も何も関係ないようですね。大まかな感想を申し上げますと、とてもいい映画だと思いました。皆さんも、今週、受難週をお過ごしになるのに、イエス様がどのような苦しみにあわれたのかを知る意味で、ご覧になるのもいいかなと思っています。評判どおり、壮絶な場面がたくさん出てきます。特にイエス様が鞭打たれるシーンだけでもが延々と15分以上も続きます。劇場では、そのあまりのむごたらしさに失神して、死んだ人まで出たと聞いております。
 私もそれを聞いておりましたので、映画館で観るのは躊躇していましたが、ビデオであれば画面も小さいし、音量もこちらで調整できると思って、覚悟して借りて観ることにしました。確かにむごたらしいものですが、それがイエス様のお受けになった苦難なのだと思います。
 監督(俳優でもある)メル・ギブソンはカトリックですので、この映画もイエスの母マリアの描き方など、カトリック色の濃いものです。聖書には出てこないカトリックの伝説も描かれています(ベロニカのハンカチなど)。

(2)愛と裏切り

 さて今日は、イスカリオテのユダについて語らなければなりません。イスカリオテのユダのことを心に留める時に、私たちはとても重い気持ちにさせられます。聖書を読んでいましても、できれば飛ばして読みたいような箇所であります。しかし私たちは、ここで立ち止まって、やはりそのことに心をとめることは大事なことであろうと思います。
 すでに先週読んだ箇所の中に、その名前が出ておりました。「夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:2)とありました。その直前には、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)とありました。イエス・キリストの愛がクライマックスに達したその同じ瞬間に、闇がすでに侵入しているのです。
 愛の対極にあるものは、「裏切り」でありましょう。愛と裏切り。ここにその両方が、端的に記されています。ユダはどうしてイエス・キリストを裏切ってしまったのか。もしかすると、ユダ自身がイエス・キリストに裏切られたというような思いをもっていたかも知れません。最初は、来るべきメシアとして受け入れて、その弟子になりましたが、だんだん自分の期待通りのメシアではないことがわかってくると、期待はずれも大きくなり、裏切られたという思いが募ったのかも知れません。
 イエス・キリストは、弟子たちの足を洗われた後に、イスカリオテのユダの裏切りを示唆しておられます。「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という聖書の言葉は実現しなければならない」(18節)とありました。この「聖書の言葉」というのは、今日、ヨハネ福音書に先立ってお読みいただいた詩編41編の中に出てくる言葉です(41:10)。

(3)誰が裏切るのかわからない

 それにしても、イスカリオテのユダがどうしてイエス・キリストを裏切るようになったのかは、よくわかりません。聖書にはその理由については書いてありません。ただその事実だけが記されているのです。「悪魔は、イスカリオテのユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(2節)。「ユダがパンを受け取ると、サタンが彼の中入った」(27節)。
 イスカリオテのユダは、十二弟子の中で特別に悪い存在ではありませんでした。『パッション』の映画でもそうでしたが、それほど悪い人間には思えない。ですから、イエス・キリストが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21節)と言われても、他の弟子たちはそれが一体誰であるか、誰もわかりませんでした。最後までわからないのです。ペトロは、イエス・キリストのすぐ隣にいた「イエスの愛する弟子」(使徒ヨハネだと言われますが)に、それが誰のことであるか、イエス・キリストに尋ねるよう、目か手で合図を送りました。この弟子は、イエス・キリストの胸元に寄りかかって、「主よ、それは誰のことですか」と尋ねます。わからないのです。
 イエス・キリストは、それを聞いて、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(26節)と答えられました。そして、おっしゃった通りに、パン切れを浸して取り、イスカリオテのユダにそれをお渡しになり、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27節)と告げられました。弟子たちは、それでもまだイスカリオテのユダが、裏切ることになるとはわかりません。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」(29節)と言われたのかと思ったというのです。また別の弟子は、「貧しい人に何か施すように言われたのだ」(29節)と思いました。つまり誰も想像つかなかった。むしろいいことをするように指示されたと思ったのです。
 イスカリオテのユダは、弟子一行の財布を預かっていた人です。あるグループで財布を預かる人は、一番信頼される人の一人ではないでしょうか。教会の財務・会計さんもそうでしょう。みんなの信用が無ければできない仕事です。みんながこのユダを信頼していたということがよくわかります。弟子たちの中核にいたのです。

(4)パン切れを浸して渡す

 ちなみに、このパン切れを浸したものを与えるというのは、愛の行為であったと言われます。主人がお客さんに対して、一人一人そのようにしたそうです。主イエスはただ合図として、これを用いられたというよりも、「イスカリオテのユダが自分に対して何をしようとも、私はユダを愛している」ということを知らせようとして、そのようにされたのではないでしょうか。そしてユダは確かにそれを、つまりイエス・キリストの愛のしるしを受け取ったのです。
 これに反対のこととして思い浮かぶのは、イスカリオテのユダがイエス・キリストを引き渡す合図として、イエス・キリストにキスをすることです(マタイ26:49)。キスというのも最大の愛のしるしです。その愛のしるしを、売り渡す合図に用いるのです。そしてそのしるしをイエス・キリストは受けられたのでした。イエス・キリストにとっては、それでもユダを愛しているというメッセージではなかったでしょうか。

(5)誰もがユダであり得た

 この時弟子たちが裏切るのが誰であるかわからなかったということは、それが誰であってもおかしくはなかったということを示しているのではないでしょうか。「ああこれはユダのことだ。前から少しあやしいと思っていた」ということではないのです。だからペトロはそれが誰であるか尋ねさせようとしたのでしょう。
 マタイ福音書の記事では、「弟子たちは非常に心を痛めて、次々と『主よ、まさかわたしのことではないでしょうね』と聞いたとあります(マタイ26:22参照)。誰かわからないだけではなく、みんな心のどこかで、「もしかするとそれは自分であるかも知れない」と思っていたということです。誰一人として、自分はイエス・キリストを裏切ることはないという確信をもつことができなかったのでした。ユダは何かとんでもない、例外的な弟子ではありませんでした。他の弟子たちの中にもユダ的要素があった。誰がユダであっても、おかしくはなかったのです。
 これは私たちにとっても、身につまされる話ではないでしょうか。いわば、この礼拝の場にイエス・キリストが来られて、「この中にわたしを裏切ろうとしている者がいる」と言われたようなものです。私たちも同じように不安になるような気がいたします。誰も「きっとあの人のことだ」とは言えません。たとえそう思ったとしても、推理小説や推理ドラマで、きっとあの人が犯人だと目星をつけてもそれがはずれるのと少し似ているかも知れません。まさかと思う人であったのです。
 福音書記者が、なぜユダが裏切るようになったかを記していないのは、それは決して彼が特別な存在ではなく、誰しもにその可能性があったということを知らせているのではないかと思います。他の弟子もある意味では、五十歩百歩でありました。

(6)主はなぜユダを召されたのか。

 それにしてももう一つ不可解なのは、どうしてイエス・キリストはユダを弟子に加えられたのかということです。主イエスは12人を選ばれたときに、後にそうなるということを見抜くことができなかったのでしょうか。もしもそうだとすれば、主イエスの重大な失敗と言わなければなりません。あるいはそうなるかも知れないと、うすうす感じつつ、いずれ自分が訓練してやろうと思いながら弟子になさったのでしょうか。もしもそうだとすれば、やはり弟子教育に失敗したと言わなければならないでありましょう。
 私はそうではなく、イエス・キリストはこうなるであろうことをすべて見越した上で、イスカリオテのユダを12弟子の一人に加えられたのであろうと思います。つまり、ユダのような人間も、イエス・キリストの弟子としてイエス・キリストと行動を共にし、弟子たちの輪の中に加えられるということが、御心であったのです。特にこのイエス・キリストの最後の夜の食事の席にユダが加わっているということは大きな意味を持っています。
 イエス・キリストは。この夜、イスカリオテのユダの足をも洗われたのです。裏切り者であるユダを除いてから弟子たちの足を洗われたのではありませんでした。
 ヨハネ福音書にはありませんが、他の福音書に記されている最後の晩餐の席には、イスカリオテのユダもいたのです。イスカリオテのユダが出て行った後、「これは私の体である」「これは私の血である」と言って、パンとぶどう酒をわたされたのではありません。このヨハネ福音書があえて、浸したパンをユダに与えたと記していることは、この最後の晩餐の食事で渡されたものがユダにも渡されたということを示唆しているのかも知れません。
 私はここに、イエス・キリストの愛の極みを見る思いがいたします。最後の夜、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」というのはそういうことであったのかと思います。
 イエス・キリストは、このユダのためにも身をかがめて足を洗い、このユダのためにもパンを裂き、ぶどう酒を用意された。もっと突っ込んで言えば、このユダのためにも十字架の上で、「父よ、彼(ら)をお救い下さい。自分で何をしているのかわからないのです」と祈り、このユダのためにも十字架にかかられたのです。

(7)だからこそ、私も

 私は、だからこそ、「確かに私も受け入れられている。ユダの足も洗われたからこそ、確かに私の足も洗われている」と信じることができるのです。「このユダでさえも輪の中に入れられているならば、私も確かに輪の中にいる」と。
 これは夜の出来事であったと、ヨハネは記しています(30節)。最も闇が深くなった瞬間です。しかしながら、その闇が深ければ深いほど、光が輝く。その裏切りの行為が最高潮に達した時に、イエス・キリストの愛も最高潮に達するのです。恵みが増し加わっているのです。
 イエス・キリストは「わたしのしていることは、今はあなたがたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と言われました。そのことは、第一に一人一人の弟子たちが、自分の足も洗ってくださるということの意味が後で分かるようになるということを指し示していると思いますが、同時に、「イエス・キリストはユダの足をも洗われた」ということが後になってわかるということをも含んでいるのでしょう。この時、弟子たちはまだユダが裏切ることになるということすら分かっていないのです。まさに先の、先のことまで言おうとしておられるのではないでしょうか。それを含めて、イエス様は「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(14節)とおっしゃったのです。
 自分を売り渡す者をも輪の中に含め、その足をも洗い、そのために祈り、そのために死なれた。その方が、私たちの主であり、私たちの師です。だからあなたがたも同じようにしなさい、と勧められるのです。これはすごいことだと思います。
 今日は、この後で、讃美歌の288番を歌います。こういう歌詞です。

1 恵みに輝き 愛にかおる
  わが主のみあとの うるわしさよ
3 十字架につけよと 怒り叫ぶ
  敵をもゆるしし 深き愛よ
5 わが主の御心 心となし
  敵をさえ友と なさせたまえ

このイエス・キリストに、私たちも続く者となりましょう。


HOMEへ戻る