白い衣を着た大群衆

詩  編  36編2〜10節
ヨハネ黙示録 7章9〜17節
2005年10月16日
経堂緑岡教会  協力牧師  一色 義子


(1)今も昔も

 この頃、地震や、大雨や、洪水や、鳥インフレンザなど、自分ひとりの問題ではなく、世界中で、日々、困難があり、今生きる、あるいは生かされている、と感謝で夜に至るのは、決して容易なことではない気がいたします。また、私たち個人の一人ひとりの歩みも、たとえ地震や津波がおこらなくても、平穏無事春風のような毎日とはかぎりません。
 人が生きる、ということは本当に不思議なような、大変なことであるし、自覚しなくても、その困難におびやかされていても、生きるのです。そして、ヨハネ黙示録の記された世界もそうでした。
 ヨハネ黙示録7章9節以下のところは、「わたしが見ていると」とイメージに映る実況放送のように、「見よ、」と注目をうながして、語りかけます。「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれえないほどの大群衆が、白い衣を身につけ」あたかも主イエスのエルサレム入場を祝った群集のように、「手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いるのです。そして、彼らは一斉に「大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」と。これは信仰告白のような叫びです。すると、それに呼応してそこに集まった「天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。』」これは、礼拝をささげる様子です。イメージの中で、神、キリストを目前にした、ものすごい礼拝です。わたしたちは今、教会に座って礼拝をささげているわけですが、実は目にみえなくとも、このイメージのように、神さま、イエス・キリストの臨在の前で、そのような礼拝をささげているはずではないでしょうか。

(2)白い衣を身につける

 この情景に対して語る「わたし」に、イメージの中の長老の一人が、問いかけてきます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。またどこから来たのか」まさにそれが本日の中心であります。「問いかけた長老こそ、実は知っているはずだ」と、問いかけられた「わたし」は問い返すのです。
 「白い衣」とは染みも穢れもついていない真の清さを象徴します。
それは驚きではないでしょうか。ここにあらわれているの「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」というものは実に雑多です。まるで違いの代表、共通しているものはもっていません。ただ唯一、その衣が真っ白で穢れがついていない、という共通の衣の事実があります。それこそ、大切なのはその次のこと、それは天の長老には周知のこと、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。」この一点の事実であります。
 苦難とくるしみ、誤解といじめ、迫害と、価値を正当に評価されず、ひどい目にあい、罪にまみれているところを、十字架につけられ復活された主イエス・キリストによって赦された、罪なきものとされた、真っ白い衣とされた、人々なのです。そして、キリストの愛によって、赦された者たちは、その者たちの側に資格もないのに、主のあわれみによって、「昼も夜もその神殿で神に仕える。」そして「玉座に座っておられるかたが、この者たちの上に幕屋を張る。」特別な祭司しか近寄ることも出来なかったその幕屋を神さまの方から、「その上に幕屋を張る」とは、幕屋の内側に入らせてくださる。しかもそれによって、飢えも渇きもなく、つらい日射も彼らを襲うことはない。安全に守られる。それだけでなく、「玉座の中央におられる小羊、主イエス・キリストご自身が牧者となって、「命の水の泉へ導き」、神ご自身が「彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」とそこまで徹底的に導いてくださる、神の愛の徹底さを語っています。なんという信仰のイメージでありましょう。

(3)教会が広い地域へ

 このヨハネ黙示録は1世紀末、おそらく西暦95年頃に、当時ヨハネと呼ばれた教会指導者が記したであろうといわれます。ということは、折りしもローマの皇帝ドミテイアヌスの統治期に重なり、キリスト教への迫害が強く迫りはじめ、そういう迫害のもとにある教会を励ますために記されたのです。 直接にローマの施政者を指さずに、しかし、教会の信者を励ますために、教会の預言者として、イメージを駆使して、神と主イエス・キリストこそ信頼すべきと、信仰がゆるがぬように励ましたといえます。
 一方でその当時の教会はかなり広い地域に広がり、民族や言語の違う人々に宣べ伝えられていき、その違いを超えて、皆、等しくキリストの贖いを受けると、白い衣を一様にいただく、みな同じという共通の「白い衣を着た大群衆」のイメージとなるのです。どんな人であろうとも、主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦されて、白くないものが白い衣をまとうようにしていただいている、この生かされていることへの自覚が、神の祝福への感謝の礼拝となるのです。この信仰こそ、2000年後の現代まで連綿と続き、日本の地にも展開される信仰であります。

(4)スコットランドのエジンバラに築かれた教会

 私は、9月に国際会議の付き添いで北イギリスに行きましたので、ついでにスコットランドのエジンバラに汽車で2時間半足をのばしました。スコットランドに寄りたかったのはイギリス国教会と違って、プロテスタントの宗教改革の歴史と伝統があるからです。幸い出発直前に森田美子姉と柳悦子姉のご友人を紹介していただき心強く、お蔭さまで、不思議なお導きで9月4日10時半、経堂緑岡教会の礼拝を想いながら、1240年に建てられたもとカトリックのカテドラルで、祭壇もないテーブルをかこんで、聖歌隊の美しいプロテスタントの礼拝を守ることが出来、感謝でした。
 そもそも、スコットランドには西暦100年の終わり頃、つまりヨハネ黙示録が記されたと言われる時からわずか100年以内に、もうキリスト教が伝えられていたというのです。「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」とはすでに真実だったのです。最初は修道院が建てられ、やがて、ローマ・カトリックの影響下に中世を迎え、私が礼拝した聖ガイス・カテドラルも1240年に建てられました。大きな王冠のような尖塔は1400年に加えられたという重層な石造りの建物です。外から見るとカトリックのカテドラル、窓のステンドグラスは昔のままの聖書物語。ただ不思議なことに十字架が見つからなくて、中に入っても祭壇をとりはずしてある。そして、なんと宗教改革をドイツのルター、スイスのカルヴァンについで、スコットランドでなしとげ、しかも長老派をうちたてたジョン・ノックスが1549年にはじめて最初のプロテスタントの説教をした、という教会だったのです。
 礼拝形式は私たちの礼拝とよく似ていて、中央の円柱にとりつけられた説教台から説教と司式をされました。聖餐式も中央のテーブルをかこんで、ひざまずかないで 立ったまま、渡されたパンを自分でちぎって次に渡し、ぶどう酒も銀の大きなお椀のような杯から自分で飲んで次にまわす、という画期的なやり方でした。そのように、思い切った教会の式を変更した宗教改革の伝統が400年も守られているのです。ジョン・ノックスはここで十数年間牧師を務め、心寂しい人々にも深く心に沁みるような説教をした、といわれますが、その生涯はさまざまの困難と国外追放と、そして、親しい師の殉教を乗り越えての改革だったようです。ジョン・ノックスが住んでいたという家も坂の下の方にありました。
 ここでも、教会の先人の福音のための、苦難苦闘を知ることができました。そのだれにとっても、どんな困難な中にあっても、わたしたちにこの神の絶大なそして、無条件の慈しみが、苦難をも失敗をも、乗り越え、希望を示されます。この「白い衣を着た者たち」とは、初代教会だけではなく、2000年の時を通して、さまざまの時、時代と、地域にありながら「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とつげられ、最高の幸いが示されているのです。なんと雄大な。そしてなんと繊細な、真実の恵み、「命の水の泉へ」みちびかれる幸いではないでしょうか。主イエスによって導かれ、赦され、生かされる人生とは、こういう恵みのゆたかさなのだ、とさとされているのです。

(5)希望に飛躍する信仰

 今日、もう一つ与えられた詩編36編は、後に名君といわれる王になったダビデが書いたとされています。ダビデには、身の危険を何度も逃れなければならず、「神に逆らう者」のさまざまの悪事になやまされた時期がありました。彼の受けた不条理と苦難は並のものではなかったのですが、この詩は苦難を語って、ぱっとひるがえって、6節でいきなり、「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。」と力いっぱい、神に信頼をおいた賛美で満たされています。この転換ができる、というのが、信仰なのです。更に苦しみも誤解も、意地悪も身の危険も、神に信頼を置き続けるとき、「滴る恵みに潤され、乾きは癒される」と歌い、「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る」と賛美の声をたからかにあげているのです。
 この飛躍とも見られるほど、絶大な神の恩寵、しかし、それが、わたしたちにも無条件で確実となるところに主イエス・キリストの十字架と復活があるのです。
 そうであればこそ、日々、生きる、ということは確実に日々生かされることになります。どんなに苦しくても、たとえ「死の陰の谷を行く」(詩編23編)とも、恵みの泉に癒され恵みの命をいただいて「白い衣」の幻に、感謝の礼拝、感謝の賛美をささげつつ、互いに赦しあい、愛しあい、信仰生活をはげみたいと願います。


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