やまを見上げよ

列王記上19章1〜12節
コリントの信徒への手紙一 10章13節
2006年6月18日
青年月間特別礼拝T
経堂緑岡教会   牧師 松本 敏之


(1)天地をつくられた主

 今日は、恵泉女学園中学・高等学校の聖歌隊クワイア・ラ・パーチェの皆さんが、メンデルスゾーン作曲オラトリオ『エリヤ』から「やまを見上げよ」という美しい歌をアカペラ(無伴奏)で歌ってくださいました。

「やまを見上げよ
み助けはいづこより来たるならん
あめつちの主、み神より来たるなり
主、わが足動かさるをゆるしまさず
主はまどろみたもうこともあらじ
やまを見上げよ
み助けはいづこより来たるならん
いづこより来たるならん」
(木岡英三郎訳詞)

これは、有名な詩編121編から作られた歌詞です。詩編121編1〜4節は、先ほど招詞として読んでいただきました。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。」
(詩編121:1〜4)

 この詩編121編は、「都に上る歌」と題されています。都エルサレムへ巡礼の旅をする人の安全、無事、神様の守りを祈る歌であったと言われます。昔の旅は大変でした。命がけでした。帰ってこられるかどうかもわからない。そうした中、山に向かって目を上げてお祈りしたのでしょう。
 最初の1〜2節は、旅をする人の自問自答です。もしかすると、山そのものに向かって助けを求めたのかも知れません。しかし、その答えは山そのものからは来ませんでした。山よりももっと高いところ、山よりももっと大きなお方から、答えが与えられたのです。それは天地を造られた主です。山を見上げながら、山に向かって目を注いでいたのに、その山の向こうにいる方に、目が向けられていったのです。
 皆さんは素晴らしい絵や彫刻を観た時に何を思いますか。最初は、その素晴らしい芸術作品そのものに感嘆するでしょう。しかしその次に思うことは、「こんなに素晴らしい作品を作ったのは、一体誰なのだろう。どんな人なのだろう」ということではないでしょうか。しかもその人が、他にもいっぱい素晴らしい作品を作っているとしたら、いかがでしょうか。「ええ、あれもこれも、あの人の作品。全然違う。でも、そう言えば、どこか共通したところがあるね。」
 自然を通して神様と出会う、というのは、そういうところがあるのではないでしょうか。古代イスラエルの山と日本の山は違います。シナイ山は厳しいごつごつとした山、日本の富士山は流線型のなだらかな山。しかしシナイ山はイスラエルの神様が造り、富士山は日本の神様が造ったというのではありません。両方とも、同じ神様が造られたのです。山だけではありません。海も川も陸も、全部同じ神様が造られた。

(2)科学と信仰

 聖書という書物は、この私たちが住んでいる世界・天地には造り主がおられるということを告げています。偶然にできたのではない。科学は、この世界・天地がどのようにできたのかを解明しようとします。この世界は、あたかも自然発生したかのようです。科学が進歩すればするほど、この世界がどのようにできていったかが解明されていきます。それでいいのです。科学と信仰は、どちらが正しいかを競うものではありません。科学はその現象を問い、信仰はその意味を問うのです。
 天動説の時代に、地動説が唱えられ始めた時、聖書の世界観に生きていた人々は、文字通り、天地がひっくり返るように驚いたことでしょう。そして自分の信仰が否定されたかのように感じ、地動説は神を冒涜しているように思ったことでしょう。進歩ぶる人は、逆に「聖書はもう古い。これからは科学の時代だ」と感じたでしょう。
 しかしより深い信仰をもつ人は、そこでいったん揺さぶられながら、この天地を造られた神様のみわざに、逆にもっと驚いたのです。「神様の造られた世界、天地というのは、実は、もっと大きかった。私たち人間は、神様の造られた世界のほんの一部しか知らなかった。あの宇宙の果てまでも、神様の造られた世界であったのか。」このことに目を向けるかどうかが、分かれ目です。
 科学者にもどうも二通りあるようです。世界が解明されていっても、その事柄だけに関心を向け、誰かがこの世界を造ったなどありえないと思う人。日本人の科学者には、どうもそういう人が多いようです。もう一つは、解明されればされる程、神様の造られた世界の神秘を感じ、人間はまだまだその一部しか知らないということがわかってくる人。マクロの世界だけではありません。ミクロの世界においてもそうです。細胞の発見、遺伝子、DNAの仕組みの解明。「この世界を造られたお方は、何とすごいお方なのか。」私は、本当に優れた科学者というのは、そこに神様の造られた世界の不思議さに気づき、神様の偉大さをより深く知っているように思うのです。

(3)この小さな私をも守られる

 さて信仰には、もう一つ大事なステップがあります。そのように天地を造られた神が、実は、この小さな私をも守ってくださるお方だということです。この旅する人は、それを告げられたのです。

「どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように」

 「天地を造られたお方は、同時に、この小さな私をも造られた方であり、しかもどんな時でも見捨てず守ってくださるお方だ。」そのことを知る時に、はじめて私たちは、平安、安心を得ることができるのではないでしょうか。

(4)オラトリオ『エリヤ』

 さて、今日歌ってくださった言葉は、詩編121編と少し違ったところがありました。お気づきでしょうか。詩編の方は、「わたしは山に向かって、目を上げる」という風に、一人称単数、直説法ですが、歌の方は「やまを見上げよ」という命令形になっていました。どうして、このような違いがあるのか。
 最初に申し上げましたように、この「やまを見上げよ」という曲は、メンデルスゾーンの『エリヤ』というオラトリオの中にある曲です。第28曲の女性三重唱です。「エリヤ」というのは、旧約聖書に出てくる最初の預言者です。預言者の中の預言者、預言者の代表です。イエス様の時代にも、「預言者と言えばエリヤ」という風に出てくるほどです。このエリヤという人は、随分、厳しい経験をしました。エリヤ物語は列王記上の17章から始まっているのですが、エリヤが小さい子どもを生き返らせる話や、たった一人で450人の偽預言者と対決する話が出てきます。興味のある方は後で読んでみてください。メンデルスゾーンのオラトリオ『エリヤ』では、そこまでが第一部です。
 さてその後、エリヤはアハブ王の王妃イゼベルに殺されそうになり、町を逃げるのです。エリヤは荒れ野の中に入って行きます。食べる物もない。喉が渇いた。肉体的にもへとへとであると同時に、精神的にも疲れ果てた。どんなに逃げたって、やがては見つけられて殺されるだけだ。彼は、こう言いました。
 「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(列王記上19:4)。
 そこで疲れ果てて眠ってしまいます。ふと目が覚めると、そこには天使がいました。枕元には、パン菓子とお水が置いてありました。天使は、「起きて食べよ」と言います。また横になり、そしてまた天使の声が聞こえてきました。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」(同7節)。エリヤは、また食べました。そしてお水を飲みました。そしてその食べ物に力づけられて四十日四十夜歩き続けました。彼は、神の山と呼ばれていたホレブ山に到着しました。そして洞穴に入って夜を過ごすのです。彼はまた、どこかから声を聞きました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(同10節)。
 エリヤは、「やるだけのことはやりました。しかしもう力尽きました。おしまいです。」神様にそう言ったのです。しかし神様は言われました。「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」(11節)。
 メンデルスゾーンは、ここに、先ほどの「やまを見上げよ」という美しい歌を挿入したのです。しかもそのままではなく、詩編の詩人が「わたしは山に向かって目を上げる。わたしの救いはどこから来るのか」と自問自答したあの言葉を、天使がエリヤを励ます言葉「やまを見上げよ」という命令の言葉に変更して、挿入したのです。
 先ほどお配りした、今年の青年月間のチラシには、教会員の大塚朋子さんが描いてくださったイラストが出ています。上の方に描かれている黒い部分、これは洞窟です。洞窟の中から、エリヤが天使の声を聞いて、山を見上げている様子です。
 山を見上げながら、エリヤはその山を礼拝したのではなく、この山を造られたお方に気づいたのです。
 その時、激しい風が起こり、「神様かな」と思いましたが、そうではありませんでした。地震が起こったので、「神様かな」と思いましたが、そうではありませんでした。火が起こった。山火事でしょうか。しかし神様はおられませんでした。その後、静かにささやく声が聞こえてきました。エリヤは、「あっ、神様の声だ」と思いました。そしてその声に耳を傾けるようにして、洞窟から出て行ったのです。そしてエリヤに、これから何をするべきかを告げられたのです。エリヤは、再び預言者として遣わされていくのです。

(5)逃れの道

 「もうおしまいだ」と、エリヤが思った時、実は終わりではなく、新しい希望の道が示されたのです。人間は誰しも、「もうおしまいだ」と思うことがあります。しかし終わりではありません。必ず、神様はそこから逃れ出る道を用意してくださっています。
 神様は時々、無理に私たちをそこまで追い込まれることがあります。なぜならば、そこでこそ、私たちは自分の力により頼むのではなく、神様に目を向けるようになるからです。この時のエリヤもそうでした。しかしそこではっと気づく神様の力こそ、本物です。パウロは、こう言いました。

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを堪えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(一コリント10:13)。

この神様を信じて、私たちも天を見上げ、希望をもって歩んでいきましょう。


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