著者の思い

〜ヨハネ福音書講解説教(79)〜
詩編119編169〜176節
ヨハネ福音書20章30〜31節
      (21章24〜25節)
2006年7月23日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)あとがき

 長らく読み続けてまいりましたヨハネ福音書も、いよいよ終わり近くなってきました。21章は後代の付加であると言われますので、本来のヨハネ福音書は、今日の20章30〜31節で終わりとなります。新共同訳聖書では、「本書の目的」という題がつけられていますが、これはいわば「あとがき」のようなものです。私たちは、新しい本を手にした時、「あとがき」から読み始めることが多いのではないでしょうか。「一体、何のためにこの書物は記されたのか。」「どういう風に読んでもらいたいのか。」「あとがき」には、そういうことが、しばしば記されます。もちろん「まえがき」に記されることもあります。
 ルカ福音書では、「まえがき」のところで、「執筆の目的、動機」が記されています。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」(ルカ1:1〜2)。
 ルカはマルコ福音書の存在を知っており、それを資料の一つとして用いたのです。

「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」(同3〜4節)。

 ここにはルカの思いが込められています。テオフィロとは一体誰であるのか、諸説がありますが、名前はユダヤ風の名前ではありません。ルカは、このテオフィロというユダヤ人ではない人に献呈するという形で、イエス・キリストの福音がユダヤ人という枠を超えて広がっていくことを伝えようとしたのでしょう。
 ヨハネ福音書の著者は、「はじめに言があった」で始まる荘重な序文で、この福音書を書き始めましたので、最後のところで、その率直な思いを述べたのでしょう。こう記しています。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を得るためである」(31節)。この言葉は、二つのことを述べています。

(2)聖書が求めている聖書の読み方

 一つは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」ということです。メシアというのは、キリスト(救い主)です。ぜひイエスが神の子であり、キリストであることを信じて欲しい。そこにこそ著者の執筆意図があり、そこにこそ著者の願い、祈りが込められているのです。
 書物には、いろんな読み方があります。最初から「あら探し」を目的にした意地悪な読み方もあるでしょう。審査員が審査するために書物を読んだり、大学の先生が博士論文を読んだりする時は、採点をしながら読むでしょう。牧師の悪い癖は、「これは、説教に使えそうだ」という動機で読むことです。
 しかし書物というのは、本来、著者が執筆した動機、意図があり、それに沿って読むのが本来的な読み方であると思います。
 聖書もいろんな読み方がなされます。それぞれの専門家がそれぞれの視点で読む。聖書位の書物になると、さまざまな研究の材料・対象にもなります。歴史学者は歴史学者の立場で、文学者は文学者の立場で読みます。建築学者、動物学者、植物学者、服飾の専門家、食べ物の専門家、もちろん神学者の場合には、さまざまな神学的の立場で読みます。ユダヤ教の神学者とキリスト教の神学者でも違うでしょう。他宗教の学者はそれぞれの宗教の立場で、無神論者は無神論者の立場で読みます。それはそれで、いいのです。当然、許されることです。聖書は奥が深い書物です。
 しかし聖書には聖書そのものが求めている本来的な読み方というのがあるのです。著者は一体何のために、これを書いたのか。ヨハネ福音書の場合は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるため」というのです。
 福音書とは、単なるイエス・キリストの伝記ではありません。福音書は、イエス・キリストの言葉と業を記したものですが、内容的にも、時間配分の上でも大きな偏りがあります。最後の受難と復活に集中しているのです。ヨハネ福音書は、特にそうです。13章からすでに、十字架にかかられる前夜の物語です。分量的には、福音書全体の半分近くがそれに当てられています。そのようにして、イエスが神の子であることを告げようとするのです。
 それは、福音書だけではなく、新約聖書全巻に共通することです。どの著者も、メッセージの強調点こそ違っても、ひとつのことを指し示している。それは「イエスこそは神の子キリストである」ということです。ですからそう読むことが、聖書を聖書として読むということなのです。一旦は、批判的対象、研究の対象としながらも、最終的にそのことに仕えているかどうか、それが鍵となるでしょう。
 もちろん、新約聖書と旧約聖書では、事情が少し違います。新約聖書は、直接的に「イエスが神の子キリスト、救い主である」ことを告げていますが、旧約聖書はそうではありません。イエス・キリストという名前は全く登場しません。しかしそれでも、私たちクリスチャンは、旧約聖書も間接的にイエス・キリストを指し示している、イエス・キリストが預言されている、と読むのです。逆に言えば、旧約聖書で指し示され、待ち望まれたメシア(救い主)こそがイエス・キリストであったということです。そのことがユダヤ教の人たちと私たちクリスチャンの旧約聖書の読み方の違いです。

(3)イエスの名により命を受けるため

 「イエスは神の子メシアであると信じる」ことには、さらに、究極の目的があります。それは、「あなたがたが信じてイエスの名により命を受けるため」ということです。このことに促されて、ヨハネ福音書の著者は、この書物を書きました。
 「命を受けること」は、永遠の命そのものであるイエス・キリストに連なることであり、そのためにこそ、イエスが神の子メシアであることを明らかにしようとしたのです。そこには、これを読む人の救いに対する熱い思いがあります。それは、ヨハネ福音書に限らず、聖書の他の書物にも通じることです。
 パウロは、こう言っています。パウロも、他人が救われることへの強い情熱を持っていた人です。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。……律法を持たない人に対しては律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(Tコリント9:19〜23)。

 この熱意です。この熱意が、伝道者を動かし、聖書の著者たちを動かしていったのです。
 しかし私は、そこにもう一つ深い配慮があったことを思わざるを得ません。言い換えるならば、このように聖書の著者の熱意を促したものは、一体、何だったのかと言うことです。そこには、直接の著者を超えた、もう一人の著者、と言いますか、誰かを動かして、福音書や手紙を書かせたお方の熱意があるのではないでしょうか。その方の思いが真実であればこそ、それに促されて聖書を記した人の思いも真実なのです。
 そこには、ただ単にこの福音書の目的だけではなく、神様の大きなご計画の目的があります。その目的のためにこそ、御子イエス・キリストは、遣わされたのだと言えるでしょう。ヨハネ福音書は、それを次のように述べていました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16)。

 この神の熱意が、ヨハネ福音書の著者の熱意へとなだれ込んでいると言えるでしょう。私たちもこの熱意を受けとめ、イエスの名により命を得たいと思うのです。
 考えてみますと、牧師も、ただこの一事のために、説教を語っているのです。説教とは、ただひとつ、イエスが神の子、救い主であることを指し示すものであります。それがなければ、どんなに有益な話がなされても、あるいはどんなに面白い話がなされても、説教とは言えません。説教も「イエスが神の子メシアであることを信じるため、そしてイエスの名によって命を受けるために」仕えるものなのです。

(4)著者とは誰か

 ところでこの著者とは、一体誰であったのか。これは、実は、そう簡単な問いではありません。伝統的には、これまで何度も出てきました「イエスの愛しておられた弟子」(13:23、19:26、20:2)が、ヨハネ福音書の著者であるとされてきました。
 先ほど申し上げたように、最後の21章は後代の付加であると言われていますが、この21章にも「イエスの愛しておられた弟子」が出てきます(21:20)。そして21章の筆者は、「これらのことについて証をし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(21:24)と述べるのです。「これらのこと」とは、そこまでの福音書全体と読むのが自然でしょう。これは、著者以外の人の手による、もう一つの「あとがき」と言えるでしょう。
 しかし聖書学者たちの研究によれば、イエスの愛しておられた弟子(恐らくヨハネ)が、この福音書を書いたとするのは、年代的にも、他の点でもかなり無理があるようです。それ故にこの福音書の著者は、イエスの愛しておられた弟子を特別視する教会の中の、無名の誰かであろうと言われています。

(5)詩編119編の「御言葉」

 今日は、詩編119編の169節以下をお読みいただきました。詩編119編は聖書の中で、最も長い章ですが、その最後の部分です。この詩編は、ヘブライ語のアルファベット22文字に従って22のセクションに分けられていますが、全体が「御言葉」というキーワードによって貫かれています。少し拾い上げてみましょう。

「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください」(25節)。
「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください」(28節)。
「主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します」(57節)。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯火。……主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」(105節)。
「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(130節)。
「主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください」(169節)。

 この詩人には、御言葉への熱い思いがあります。御言葉への信頼があります。聖書には、聖書の本来的な読み方があると申し上げました。御言葉が光を発しているのです。その光に従って、「御言葉が求める通り、そのままに私に理解させてください」と祈りつつ読むのです。御言葉をあるがままに理解するということは、私たちがそれによって救いにいたること、命を得ることであると、私は思います。

(6)書き切れない程の恵み

 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(30節)。「自分はイエス・キリストの言葉とわざ、そして不思議なしるしをすべて書き記すことはできない」という無力な思いであったのでしょうか。むしろ、「イエス・キリストのなさったことは、とてもここに収まりきれない程の恵みに満ちた、あふれ出る程のものだ」という喜ばしい思いでありましょう。
 21章の筆者も、もっと大きな表現で同じことを語っています。「イエス・キリストのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21:25)。
 それほどまでに多くのわざをなさった。私は、これは決して誇張ではないと思います。イエス・キリストのしるし、イエス・キリストのわざは、私たちのところまで脈々と連なっております。そのことを思う時に、このヨハネ福音書の言葉は、時代を超えて、私たちに実感として響いてくるのではないでしょうか。イエス・キリストが2000年前より今日までになさったこと、それはとても数え切れないものであります。
 私たちのこの小さな教会、わずか75年の歴史の教会においても同じことが言えるのではないでしょうか。私たちは昨年「75年史」を編纂いたしましたが、この書物にはとても収めきることはできない多くの恵みを、神様は私たちの教会に降り注いでくださいました。一人一人先達を通して、それを現してくださったのであります。
 今日はこの後、7月召天者記念の祈りの時をもちますが、その方々を通しても私たちに注がれたイエス・キリストの恵みを思い起こしたいと思います。そしてそれによって、私たち自身がイエス・キリストの永遠の命に連なること、ヨハネ福音書の著者もそれを求め、神様ご自身もそれを求めておられるのであります。


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