働き人の召集

〜出エジプト記講解説教(42)〜
出エジプト記31章1〜11節
マルコによる福音書3章13〜19節
2006年10月1日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)世界宣教の日

 本日は、世界聖餐日であり、同時に、日本基督教団ではこの10月第一日曜日を世界宣教の日と定めています。日本基督教団では、毎年、この世界宣教の日に合わせて、『共に仕えるために』という小冊子を発行しております。日本基督教団から派遣されて世界各地で働く宣教師と関係教会の働きがリポートされています。私もブラジルで働いていた7年間は、毎年、書いておりました。限られた字数で、日本の教会の方々に何を伝えるか。とても苦労しながら、祈りを込めて書いておりました。そしてこれを読んでくださった方々から、さまざまな応答、祈りの便りが帰ってくることは大きな励ましでありました。
 ですから今でも、私はこれが届く度に、丁寧に読むことにしています。この中には、宣教師たちの祈りや願いがぎっしり込められていることを知っているからです。
 今年は、私にとってはショックな出来事がありました。私の後任としてサンパウロ福音教会で10年間お働きくださった小井沼國光先生、眞樹子先生が國光先生の筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病のために帰国されたとことであります。そして國光先生は、病気が思ったよりも早く進行し、8月24日に天に召されました。小井沼先生の後任として、ブラジル・アライアンス教会の日系二世の作間サムエルという先生が就任してくださいました。二世の牧師が赴任されたということは、サンパウロ福音教会の将来にとってよいことであったと思っておりますが、小井沼先生御夫妻の帰国により、ブラジルで働く教団の宣教師が一人もいなくなってしまったことは、残念でもあります。
 「小井沼宣教師夫妻と共に歩む会」を解散するにあたって、その中から数人の者が、「何とかブラジルの教会との関係を持ち続けよう。またブラジルの教会やラテンアメリカのキリスト教全体から学び続けよう」ということで、新しく「ラテンアメリカ・キリスト教ネット」という会を立ち上げることにした次第です。いよいよ今週、その発足記念集会を開催することになっておりますが、祈りのうちにお覚えくだされば、幸いであります。

(2)27〜30章に記されていること

 さて、私たちは、出エジプト記を読み進めていますが、今読んでおりますのは幕屋建設の指示という、どちらかと言うと、読みづらい部分であります。前回は、26章の幕屋と幕作りの指示の言葉を読みました。順々に行くと、今日は27章なのですが、あまりにも煩雑な言葉が続きますので、今日は、世界宣教の日、そして来週の神学校日を覚えて、思い切って少し飛ばして、31章を読むことにいたしました。
 最初にざっと、27章以下には何が書いてあるかということをお話しておきましょう。まず27章ですが、新共同訳聖書では「祭壇」「幕屋を囲む庭」「常夜灯」という表題が掲げられています。「祭壇」というのは、犠牲の供え物を焼くための祭壇です。この記述によれば木製です。木製の祭壇ということでは、たとえ青銅の板で上張りしたり、中を空洞部分にして土や石を詰めたりしたとしても、実際に機能したのかどうかはやや疑問があります。「犠牲の供え物」については、前回お話したので、今日は繰り返しません。
 「幕屋を囲む庭」というのは、幕屋を中心にした敷地全体のスペースです。奥行きが100アンマ(45m)、幅が50アンマ(22.5m)ですから、かなり広いスペースであることがわかります。そして常夜灯製作の指示。これは、幕屋の中で聖所と至聖所を隔てる幕の手前に置かれたようです。夕暮れから明け方まで灯し続けました。
 28章は祭司が着る服の製作指示。29章は祭司聖別の儀式についての指示。30章は、祭司聖別の儀式を踏まえて、実際に儀式に使うものを揃えることの指示が記されています。

(3)形にするのは難しい

 そこでいよいよ、今日のテキストである31章でありますが、ここには、「技術者の任命」という表題が付けられています。
 神様はモーセに向かって、これまでこまごまと、そして延々と、幕屋とその中の祭具の製作を命じられました(26章〜30章)。31章7節以下に、何を製作するかがまとめて記されていますので、整理確認の意味でも、改めて読んでみましょう。

 「すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の購いの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台、祭司アロンのために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らはわたしが命じたとおりに作らねばならない」(7〜11節)。

 これらの製作が命じられたのでした。しかし、いかがでしょうか。いくら細かい指示があるとはいえ、それを形にするのはそう簡単ではありません。設計図と実物とは違います。しかもこの場合は、図面ではなく言葉ですから、どんなに細かく指示しても書ききれない。あるいはケルビムの像を作ると言ったって、絵に描いたスケッチすらありません。たちまち途方に暮れてしまいます。誰かが描かなければならない。
 香りのささげもののための香をつくると言ったって、何を材料にどんな香を作るのか。神様はどんな香を喜ばれるのか。匂いを作り出す。これも広い意味で芸術家の仕事です。しかし勝手にやっていいものかどうか。許される幅があり、その幅の中でいかによいものを作るか。それこそ技術者と芸術家の腕の見せどころであると言えるのかも知れません。
 神様の命令された幕屋とその祭具などを具体的に形にしていくためには、お金も必要だし、力も必要だし、知恵も必要です。(費用については、35章で述べられます。)何よりもそれを実現に移すための知恵、そして指揮官が必要です。今日で言うジェネコン(ジェネラル・コントローラー)でしょうか。芸術家が必要です。技術屋も必要です。タレントが必要なのです。

(4)技術者・芸術家の任命

 しかし、そうした事態、これを形にするのは容易ではないことをも、神様はちゃんと想定しておられます。それでこそ、この30章の命令があるのです。

 「主はモーセにこう仰せになった。『見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる』」(1〜5節)。

 神様がそれを実現するのに必要な人材をきちんと立ててくださる。そしてその人を神の霊で満たされる。神様がインスピレーションを与えられるということです。どのような工芸にも、知恵と英知と知識をもたせる。
 『岩波版旧約聖書』の木幡藤子氏の注によれば、「旧約聖書における知恵(ホフマー)は、単に知識や思考力といった知的能力だけではなく、実践的・実際的な問題解決能力や、さらには職業上の手腕や技術的熟達度をも意味しうる」ということです。この「問題解決能力」というのが大事です。頭でっかちの理論ばっかりでは役に立たない。
 さらに神様は、ベツァルエルだけでは実現が難しいであろうことも分かっておられて、助手(アシスタント)まで任命されるのです。「わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする」(6節)。
 そして大事な言葉、「わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵(問題解決能力です)を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる」(6節)。
 いかがでしょうか。神様はただヴィジョンを与えて、「それを実現せよ」と命令されるのではなく、それを実現できるように、働き人を召集してくださるのです。このところで、幕屋建設そのものが、実は神様の御業であるということが、明らかになっているのではないでしょうか。

(5)偶像製作か、宗教芸術か

 ここには、宗教芸術、ひいてはキリスト教芸術に関して、とても示唆的なことが書かれています。そもそもキリスト教芸術とは何なのか。そんなものがありうるのか、という問いがあります。私たちが今、読んでいます出エジプト記の中には、十戒があり、その中には、「あなたはいかなる像も造ってはならない」という第二戒があります。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなる形も作ってはならない」という戒めです。この戒めと、例えば、「ケルビム(の像)を造りなさい」という戒めは矛盾しないのか。そういう問いがあるのではないでしょうか。

(6)渡辺総一「美術を通しての創造」

 今日、日本のキリスト教美術を代表する芸術家に渡辺総一という人がいますが、彼もこの問題で若い頃悩まれたようです。
 渡辺氏は、『礼拝と音楽』最新号(131号)に、「美術を通しての創造」という論文を寄せ、その中でこう書いておられます。

 「日本のプロテスタント教会では、キリスト教美術を礼拝堂の中に飾ることはあまりしません。その理由の一つとして、明治以来ピューリタニズムの影響のため、禁止か軽視か、視覚芸術に対して消極的になってきたことがあげられます。わたし個人も求道中の学生時代に、十戒の第二戒を知らされ、キリスト教信仰と美術は両立するのは難しいのではないか、という素朴な思いを抱かされました。
 しかし、受洗後自分が美術という賜物を用いて生きることに導かれた時には、言葉や音楽と同様に、神様をほめたたえる表現の一つとして、許されているはずではないかという確信をもたされ、聖書を主題とした絵の制作を始めたのでした……。わたしは今、神の像を造りそれを礼拝することを第二戒で禁じていても、美術を通して神様をほめたたえることを禁じてはいないように思っています。」

そして渡辺総一氏はこう続けます。

「この点について大変励まされたのは、出エジプト記にある神の幕屋づくりの指示の箇所でした。神の霊に満たされた二人の人物、ベツァエルとその助手オホリアブに対してデザインや技術工芸を託し、礼拝のために必要な幕屋、祭壇、全ての祭具を作らせています。そのように積極的に美術をお用いになられる神様の姿勢から、キリスト教美術、教会における美術、礼拝における美術に携わるわたしたちも積極的に取り組むように促されたように思いました。」

 私もその通りだと思います。神様は、人を用いて、神様をたたえるための芸術(教会堂であれ、幕屋であれ、タペストリーであれ)を造るようにと、命じておられるということであります。神様は、そこで芸術家を立てられるのです。そこには画家もいれば、デザイナーもいる。作曲家もいれば、演奏家もいる。すべては、神様をほめたたえるためです。
 芸術家だけではありません。29章で述べられたことで言えば、その中心的な仕事として、祭司を立て、祭司を聖別されたということです。今日の私たちの教会で言えば、神様は、教会を建てるために、牧師を立てられる。そのためにまず働き人を召集し、神学生として立てられるのです。私が神学校へ入った時の最初の印象は、神様は実に多種多様な人間を、ここに集められたなということでありました。背景も違えば、性格も違う。信仰の形態も違う。体育会系の人もいれば、エリートもいる。しかしそれが一つの群れとされているという不思議な感動がありました。

(7)イエス・キリストの弟子召集

 イエス・キリストが12人の弟子を集められた時も、多種多様な、雑多な集団でありました。熱心党員シモンと徴税人マタイが一緒にいることからして、変な集団です。なぜならば、熱心党員とは強烈なナショナリスト、反ローマの典型です。一方、徴税人とは、ローマの権力をかさに着て、税金を集めている人であり、親ローマの典型です。熱心党員からすれば、徴税人が同席していることすら汚らわしいと思ったかも知れません。何か共通の目的のために集まった有志集団ではないのです。それだけではなく、やがてイエス・キリストを裏切ることになるイスカリオテのユダもその中に入れられています。何のために集まったのか。こちら側には、共通の目的はない。ただただ、イエス・キリストが召し集められたからです。マルコ福音書では、その目的にようにして、三つのことを掲げています。「彼らを自分のそばに置くため」「派遣して宣教させるため」「悪霊を追い出す権能を持たせるため」ということです。それらは、神様の側からの理由、イエス・キリストの側からの理由であります。そこに人知を超えた神の配慮があったと思います。
 私たちの宣教も、人間のヴィジョンがあって、それを実現していくということではなく、神の宣教(Missio Dei)に人間が参与していくということであります。
 私たち自身も、それぞれの賜物を用いて、神様の御用のために働くようにと召されていることを、心に留めましょう。大きな賜物はなくとも、誰しもそれぞれ小さな賜物をもっております。それがないというのは、自分で気づかないだけのことであると、私は思います。それを神様の栄光を表すために用いようとする時、私たちの人生は祝福されるのではないでしょうか。


HOMEへ戻る