民と共に行かれる主

〜出エジプト記講解説教(44)〜
出エジプト記33章12〜17節
ローマの信徒への手紙8章35〜39節
2006年11月26日
経堂緑岡教会   牧師 松本 敏之


(1)収穫感謝日、謝恩日、1年の終わり

 本日は、収穫感謝日であり、謝恩日であります。収穫感謝をこの時期に行うのはアメリカから始まったことですが、もともとは聖書にも出てくる世界共通のことであります。私たちは、神様から多くのものをいただいておりますが、直接には、地の実りのものを改めて感謝していただくのです。
 また謝恩日というのは、隠退した先生方を覚える日です。その先生方なしには、今日の私たちの教会はなかったということを心に留めたいと思います。
 同時に、本日は教会の暦では1年の終わりの日曜日であります。来週からアドベント(待降節)が始まります。教会の暦はこの時から一回りいたします。その直前の日曜日は、終末、世の終わりを覚えながら過ごす。そこで再臨のキリストを待ち望みながら、同時にクリスマスを待ち望むアドベントへ入っていきます。

(2)「私自身は、一緒に行かない」

 さて私たちは出エジプト記を読んでおりますが、前回(10月29日)は、出エジプト記32章を読み、「モーセのとりなし」という題でお話いたしました。本日の33章でも、「モーセのとりなし」が続いております。33章は、このように始まります。

 「主はモーセに仰せになった。『さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である』」(1〜3節)。

 いかがでしょうか。微妙な言い回しです。ここでは三つのことが語られています。一つ目は、「約束の地に向けて出発しなさい」ということ。二つ目は、「あなたの前に使いを送る」ということ。三つ目は、「しかし私自身は、一緒に行かない」ということです。一緒に行かない理由は、「あなたを滅ぼさないため」というのです。無事に旅を全うさせるための配慮でしょうか。しかし神は「さあ行きなさい」と言いながら、「自分は一緒に行かないよ」というのですから、突き放したような言葉です。イスラエルの人々は、これを悪い知らせとして、受け止めました。彼らは、金の雄牛を造った裁きは免れましたが、同時に、「神が共に行かれる」という守りからもはずされてしまったのです。
 「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった」(4節)。それは、主がモーセに、「直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう」と言われたからでありました。イスラエルの民にとっては、飾り物を身に付けない、ということは、悔い改めのしるしであったのでしょう。

(3)友と語るように

 モーセは、次に、宿営(キャンプ地)の外、遠く離れた所に、一つの天幕をはって、「臨在の幕屋」と名づけました(7節)。これは、さきに細かい指示を受けた、あの本格的な幕屋ではありません(25〜31章参照)。臨時の簡単なものです。モーセが神様と会い、神様と話すための場所です。宿営の外にそれを置く。
 この後のイスラエルの歴史を見ていきますと、宿営の外というのは汚れた所、神様の祝福、守りからはずれた所という意味合いをもってくるのですが、この時は逆です。宿営そのもの、イスラエルの民そのものが汚れ、罪に満ちているから、神様はその外でモーセとお会いになるというのです。
 モーセがその臨在の幕屋に行く時、イスラエルの民は全員起立して、それを見送りました。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りてきて幕屋の入り口で、それが止まりました。神様が来られたことの徴です。それを見ながらイスラエルの民は、それぞれ自分の幕屋(テント)の入り口で礼拝をしました。彼らは彼らで、できる限りの誠実さを示そうとしたのです。
 主なる神様はモーセと、その臨在の幕屋の中でお会いになります。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(11節)。これは本来、ありえないことでありました。神様が人間に語られる時、人間は決して顔を見てはいけない。汚れた者は、神様のきよさのゆえに死ぬ、と言われていました。
 この33章の終わりの部分でも(別の文脈ではありますが)、神様はモーセに対して、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」(20節)とおっしゃっています。これが本来の関係です。ところが、この臨在の幕屋の中では、神様はモーセと、顔と顔とを合わせてお語りになったというのです。友のようにして。確かに、この後、モーセと神様は、より突っ込んだ話をします。そして食い下がるモーセの願いを神様が聞き届けられるのです。そこで、神様はモーセを対等な交渉相手、パートナーとして見ておられるようです。これは非常に興味深いことです。
 新約聖書の中でも、イエス・キリストが弟子たちのことを友と呼ばれたことがありました。

「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:14〜15)。

 これも本来は、ありえないことでした。主人の方から僕であるはずの者に向かって、そう言われたからこそ、実現したことです。それを髣髴とさせるような言葉が、神様の口からモーセに向かって語られたのです。

(4)モーセの願いを超える答え

 それで、モーセは二つのことを神様に願い出ました。まず「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません」(12節)。
 さらにモーセは続けます。「『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください」(13節)。
 ところが神様は、このモーセの二つの願い(「遣いの者を示してください」と「神様の道を示してください」)に、直接、答えようとはなさらず、より次元の深い答えをされるのです。しかしこれこそが実は、モーセが一番欲しかった答えであります。
 「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」(14節)。
 神様ご自身が「自分は一緒に行かない」と言われていたから、モーセはそれを求めることはできなかったのでしょう。しかし、神様はモーセの深い求めがどこにあるのかを察知して、「わたし自らが同行しよう」とおっしゃったのです。
 かつてもこれと似たようなことがありました。それは、最初にモーセが召し出された時でありました。モーセは、ミデアンの地にひっそりと妻と子どもと過ごしていましたが、そのモーセに向かって、神様はこう呼びかけられました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出3:10)。
 この召し出しに対して、モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(出3:11)と問いかけました。モーセの「わたしは何者でしょう」という言葉には、「私はそんな大それた人間ではありません」という思いと、モーセのアイデンティティー・クライシスが表れています。モーセは、生まれから言えばイスラエル人、育ちから言えば、エジプトの王女の息子でありました。
 しかし、神様はこのモーセの「わたしは何者でしょう」という問いにはお答えにはならず、少しはずれた答えをされた。それは「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(出3:12)という言葉でした。モーセは自分の資質を問うたのですが、実はモーセが誰であるか、どんな人物であるかどうかは、関係がない。大事なことは、神様が共にいてくださるということです。だから「わたしは必ずあなたと共にいる」と答えられたのです。神様の約束こそがモーセがリーダーであることを示すものでありました。
 今日の32章でも、モーセの「遣いを示してください」「道を示してください」という言葉に答えるよりも、それらすべてを超える答え、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」とおっしゃったのです。これは深い御言葉であると思います。

(5)モーセの必死の願い

 モーセは、この神様の答えを聞き逃したのでしょうか。まさかそんなことはあるまいと思ったのでしょうか。もっとはっきりと、神様の同行を願い出ます。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」(14節)。あなたが来てくださるかどうか、これこそが最も大事なことです。モーセは、自分が召しだされた時のことを思い起こしていたかも知れません。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
「神様、あの約束はどうなってしまうのでしょう。わたしは、ただあなたが共にいてくださるからこそ、そしてあなたがそうおっしゃったからこそ、今日までやってこられました。それなのに、あなたは、『ここから先は行かない。使いの者をやるから、お前がその使いと一緒にみんなを引っ張っていけ』とおっしゃるのでしょうか。あの約束は一体どうなってしまうのです。私には無理です。」モーセは続けます。
 「一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか」(16節)。モーセは、神様が「友と語るように」とおっしゃったので、自分の最も欲しいこと、自分の民が最も必要なことを、率直に求めるのです。
 主なる神様は、モーセに答えられました。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」(17節)。モーセのなりふりかまわぬ、必死のとりなしの祈りが聞き届けられたのです。

(6)神の主権

 モーセは更に言葉を重ねます。「どうか、あなたの栄光をお示しください」(18節)。神様は答えられます。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する」。「主」というのは、本来は「ヤハウェ」という名前であり、「私はある」という意味です。その名前をモーセに宣言されたのです。そして「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と続けられました。これはパウロも引用した有名な言葉、神様の主権を示す言葉です(ローマ9:15参照)。「誰に恵みを与えるかは私の自由だ。人間の側の功績などにはよらないのだ」という神様の宣言だと言ってもいいでしょう。

(7)旧約から新約へ

 アドベントへ進みゆく1年の終わりの日曜日に、この御言葉が与えられたということは意義深いことであると思います。なぜならば、このモーセの神様への問いかけ、必死の祈りは、旧約から新約を待ち望む願いでもあるからです。
 「もしあなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」。モーセ自身の切実な祈りです。神様は、「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう」とおっしゃった。この神様の約束は、クリスマスによって出来事となったと言えるでしょう。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)。主の天使は、そのようにマリアの夫ヨセフに告げました。インマヌエルとは、「神はわれわれと共におられる」という意味であります。どんな使いの者、預言者でもまだ足りない。神様ご自身が人間と共に歩む。それはクリスマスによって実現するのです。私たちはその約束を心に留め、イエス・キリストが私たちと共におられることによってこそ、どんな困難をも乗り切ることができるのではないでしょうか。
 パウロは、「どんなものも、この神の愛からわたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)と述べました。その神様の愛が、今、旧約のはるか彼方から、イエス・キリストを待ち望むようにして、モーセの口から願われ、神様の口から約束として与えられているのです。
 また謝恩日にあたり、日本においても先輩牧師たちが、あのモーセと同じように、とりなしの祈りを捧げ続けてくださったことを心に留めたいと思います。そうしたひたすらな祈りを、神様はお聞き上げくださる。そしてそれによって、私たちの今日、一人一人と、教会があるのです。
 神様は名指しで呼ばれるお方です。モーセを名指しで呼ばれ、そのことのゆえにあなたの願いを聞き届けると言われました。
 先ほどのヨハネ福音書15章の言葉のすぐ後には、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)という言葉があります。私たちを一人一人選んで、名指しで呼ばれている。その呼び出しに答える時に、大きな祝福を与えてくださるのです。アドベントを前にして、1年の終わりに、深くそのことを心に刻みましょう。


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