〜出エジプト記講解説教(45)〜
出エジプト記34章1〜10節
マタイによる福音書15章32〜39節
2007年1月7日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
新しい年、2007年が始まりました。この年も、私たちは主の恵みのうちに歩んでいきたいと思います。新しい年を迎える時、私たちは気持ちも新しくさせられます。先ほどはグリーンスリーブスのメロディーに乗せて、こう歌いました。
「古いものは皆 うしろに過ぎ去り
喜びの歌が 聞こえてくる。
山も海も ゆたかにかがやき
めぐみあふれよ 新しい年」
(第二編152番)
美しい、そして新年にふさわしい歌であります。また説教後の讃美歌では、このように歌います。
「2過ぎ去った 日々の悲しみ
さまざまな うれいはすべて
キリストの み手にゆだねて
み恵みが あふれるような
生きかたを 今年はしよう
3みことばに 励まされつつ
欠け多き 土の器を
主の前に すべて捧げて
み恵みが あふれるような
生きかたを 今年はしよう。」
(『讃美歌21』368)
これもまた、私たちの率直な思いをまっすぐに言い表した、とてもいい歌であると思います。『讃美歌21』らしい新鮮な曲です。
さて皆さんは、どのような思いで新年を迎えられたでしょうか。「こういう生きかたを今年はしよう。」それぞれの思いを、祈りにこめて歩み始められたのではないでしょうか。
私たちは新しい年を迎えるごとに、そのように気持ちを新しくするのですが、いつしかその気持ちも古びてしまう。そういう経験を何度も繰り返しています。三日坊主という言葉があります。(教会で「坊主」というのも変ですが。)元旦に何かを決心しても、7日経って、もうくじけてしまったという方もあるかも知れません。
そうした中で大事なことは、私たちの意志はそのように弱くても、私たちを新しくしてくださるのは神様だ、ということではないでしょうか。
ローマの信徒への手紙12章のはじめに、こういう言葉があります。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)。
「心を新たにして自分を変えていただき」とパウロは言うのです。私たちの心というのは、だんだんとかたくなになっていく。今日私たちが読んでおります出エジプト記のところでも、「かたくなな民」(33:3、34:9)と言われている。心を柔軟にすることができない。しかし心を柔軟にすることも、実は神様のみわざなのです。
このローマの信徒への手紙12章2節の言葉を、ある人はこう意訳していました。
「神に献げて受け入れられる、生きた供え物として、世間の鋳型にきゅうくつにはめこまれず、神が、あなたがたの精神を内側から改鋳してくださるようにしなさい」(J・B・フィリップ意訳から佐伯晴郎訳)。
そのように私たちを「改鋳する」ように刷新してくださる神様のみわざに目を向け、それを信じ、その神に従うことで新しくなりたいと思うのです。
さて、私たちは出エジプト記を続けて読んできました。今日の34章は、まさしく神様が私たちを新しくしてくださる、神様が新しく始めてくださるということを語った部分であります。前回は33章を読みましたが、出エジプト記の32章から本日の34章は、一続きの物語になっています。
モーセがシナイ山の上で、契約の言葉をいただき、それが石の板に記された。それをモーセが持ち降りてくるのですが、山の下では、帰りの遅いモーセを待ちきれずに、金の子牛の偶像を造り、お祭り騒ぎをしていました。モーセは山から降りて、それを見た時、激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いてしまうのです(32:19)。
しかしモーセは民に対しては、そのように厳しい顔を見せながら、主なる神に対しては、「どうか彼らの罪を赦してください」とひたすらなとりなしの祈りをするのです。それが32章の終わりから33章にかけて記されていたことであります。
今日の34章は、それを受けて始まり、この部分のクライマックスになっております。先ほど申し上げましたように、モーセは神様からいただいた十戒の板をたたきつけて壊してしまっておりました。「この民はそれを受ける資格がない。むしろそれによって裁かれ、滅びてしまう」と思ったのです。
しかし神様の方は、その民のために、もう一度すべてを新しく始めてくださるのです。モーセに十戒を刻む板を用意させ、罪を犯した民がやり直すチャンスを与えてくださいました。
「主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい』」(1〜2節)。
神様の恵みの言葉であります。私たちはもう一度初めからやり直すことができる。それは、神様がそのように促してくださっているからであります。
モーセは誰も従者を連れず、ただ一人山を登っていきました。手には二枚の石の板を携えていました。そこで主なる神様は、彼の前を過ぎ去り、こう宣言されます。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(6〜7節)。
これは神様が、自分がどのような者であるかを宣言なさった言葉です。最初に、「主、主」と書かれていますが、もともとは「ヤハウェ、ヤハウェ」という神様の名前が記されています。「わたしはある」というような意味であります。自分の名前を宣言しながら、自分がどういうものであるか、慈しみ深いものであることを明らかにされた。
ただしその次に記されている言葉は厳しいものです。
「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」(7節)。
「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」というのは、ひどいと思う方もあるでしょう。私もそう思いますが、事実として、親が犯した罪の結果、子どもや孫までもその影響を受けるということがあると思います。しかし、やがてエゼキエル書においては、「人は各人の罪によって裁かれる。親の罪を子どもが負うことはない」ということがはっきりと語られるようになります(エゼキエル18章参照)。
今この言葉が告げようとしていることは、神は決して罪をそのまま見過しにされるお方ではないということでしょう。主は、「熱情の神」(14節)なのです。
ただ、ここでぜひ心に留めたいことは、父祖の罪を問うのは、せいぜい三代、四代にまでだけれども、神様の慈しみは「幾千代にもおよぶ」ということす。慈しみの方が裁きよりも何千倍も大きいのです。その厳しい裁きさえも、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」という大きな恵みの言葉の中に包み込まれてしまうようです。
神様がご自分の方から名前を明かしてくださった。名前を明かすことによってモーセを認め、対等のパートナーのようにして、「その友と語るように、顔と顔を合わせて」(33:11)、ご自分の言葉を告げられるのです。名前を明かすということには、特別な意味があると思います。
昨年の夏休みに私は、ル=グウィン著の『ゲド戦記』という少年向きのファンタジーを読みましたが、その中でも、本名を明かすということは、自分を相手に委ねるという特別なことを意味していました。
聖書においても、神様はモーセにご自分の名前を明かされた時、モーセを信頼して自分を委ねて、ご自分の本音を語られたのでしょう。聖なる名前が告知される。この名が告知されるまでは、モーセといえども、黙して頭を下げ、礼拝することしかできませんでした。
名前が明らかにされることによって、神様とモーセの話が始まるのです。その後、モーセは訴えます。
「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」(9節)。
「嗣業」とは、「神様から受け継ぐもの、恵みのうちにあるもの」ということです。
そのモーセのとりなしの祈りに続いて、神様は、こう言われた。
「見よ、わたしは契約を結ぶ」(10節)。一旦破棄された契約を、神様は、もう一度結ぶと言ってくださった。
「わたしはあなたの民すべての前で驚くべき御業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである」(10節)。
罰せられるべきことがあったのに、単純にそれを裁くということではなく、全くこれまでなかったような新しい仕方で、生きる道をつけてくださるのです。
すべてを新しくする。これは、やがてイエス・キリストを待って実現すると言ってもよいかも知れません。
この後、戒めが再授与されたことを確認するように、十戒の最初の部分が繰り返されます。まず偶像を造ることと拝むことの禁止(13〜17節)が語られます。「あなたは鋳造の神々を造ってはならない」(17節)。また21節では、「安息日を聖として、これを守れ」と示されます。
さて、そうした戒めの再授与ということがあった後、不思議な結びが出ております(29〜35節)。「モーセの顔の光」と、題されております。
「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」(29〜30節)。
これは何を意味しているのでしょうか。それは、神様の前に出たモーセも、神様の光を身に帯びるようになっていたということであろうかと思います。もちろん神様ご自身の光と混同してはならないと思いますが、神様と話をしたモーセも、その光のなにがしかをもっていた。光をいっぱい受けて、その光が去った後も、まだ光が残っていたのです。ちょっと夜光塗料のような感じがします。それは、人々を恐れさせるものでありましたので、モーセは語り終えた時に、自分の顔に覆いを掛けました(33節)。
新約聖書の中でも、少し似たことがあります。イエス・キリストは、「わたしは世の光である」と言われましたが(ヨハネ8:12)、同時に「あなたがたは世の光である」とも言われました(マタイ5:14)。
この「あなたがた」の方の「世の光」は、イエス・キリストの「世の光」と同じではないでありましょう。私たち自身は光るものではありません。むしろイエス・キリストの光を身に受けて、それを反映した光でありましょう。しかし、イエス・キリストと共にある時に、私たちも何らかの光を持つものとなっていると、イエス・キリストが宣言してくださっているのではないでしょうか。それを受けて、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)と言われるのです。今日のモーセの光は、それと少し違って、逆に、まわりの人々を恐れさせるものであったわけですが、私はここにも神様に触れる人間の姿があるように思いました。
今日、新約聖書の方は、マタイ福音書15章に記された4千人の人々に、パンを与えたという奇跡物語を読んでいただきました。実は、これとよく似た話が14章13節以下にも出てきます。14章の方は、5千人の人々にパンを与えたという物語でした。これはもともとは同じ出来事であったのではないかという説もあるのですが、私はむしろ、イエス様が、5千人の人々にしてくださった奇跡をもう一度、見せてくださった。繰り返してくださったのだと思うのです。何度でも新しく奇跡を見せてくださる。それによって、私たちが恵みを忘れて不安になる時にも、「まだ気づかないのか」「まだ悟らないのか」と、イエス様の恵みの方が追いかけてくるのです。
これから私たちは、聖餐式にあずかりますが、聖餐式というのは、洗礼によって一度受けた恵みが(洗礼は繰り返すことはできませんが)、その都度、その都度、私たちが新しくされていくという儀式であります。この日、イエス様の恵みを味わいながら、新しい年を歩み始めましょう。