〜出エジプト記講解説教(46)〜
出エジプト記35章4〜22節
使徒言行録4章32〜37節
2007年1月21日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
出エジプト記を続けてまいりましたが、いよいよ最後の部分に入ります。このところ(35〜40章)は、25章から31章までを受けて、ほとんどがその繰り返しです。前の部分では、幕屋建設の細かい指示が記されていましたが、この35章以下においては、それらが確かに実行されたということが述べられるのです。今日は、特にその最初の部分、35章4節から36章7節までを、見てまいりましょう。
「モーセはイスラエルの人々の共同体全体に告げた。『これは主が命じられた言葉である。あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい』」(4節)。
「すべて進んで心からささげようとする者」とあります。これが、幕屋建設を貫く精神です。幕屋建設に必要な材料は、強制的に集められたのではありませんでした。税金とは違う。年貢とは違う。進んで心からささげる。それによって、ことがなされる。これは不思議なことではないでしょうか。この後で列挙されたものは、そうやすやすと手に入るものとは思えません。
「金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アアカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草(こうそう)の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込む縞めのうの石やその他の宝石類である」(5〜9節)。
「じゅごん」というのは水棲動物ですが、日本語で言う「じゅごん」と必ずしも同じではないようです。イルカと訳されることもあります。水棲動物なのでその皮に防水効果があり、会見の天幕の上の覆いに用いられたようです。祭具の包装にも、その皮が使われました。あとのものも、金、銀、宝石を初めとして、高価なものがずらりと並んでいます。
彼らは、モーセの言葉を聞いた後、一旦、それぞれの家(天幕)へ帰るのです。こう記されています。「イスラエルの人々の共同体全体はモーセの前を去った」(20節)。そして、みんな自分の家(天幕)で、「モーセが掲げたあのリストの中で、うちにあるものはないかしら」と探したのです。「自分にできることはないかしら。」誰も強制されてはいません。そしてモーセのもとへ帰ってきました。今度は手ぶらではありません。それぞれ、ささげ物を携えてきました。
「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた」(21〜22節)。
これらのものは、すべて非常に高価なものであったに違いありません。かつて奴隷であった人々が、いつのまにそんな高価なものを手に入れたのでしょう。旅をしているうちにさまざまな財産を持つようになったのでしょうか。しかしそのような大事なものであれば、なおのこと、それをささげてしまうことはなかなかできることではありません。しかし、彼らは幕屋建設のために喜んでそれらをささげたのです。「私は、これをもっています。これをささげさせてください。」と名乗りを上げた。そこには彼らの下心はなかったでありましょう。
彼らは、あの金の子牛を造った時も、それぞれ材料を持ち寄りました。しかし、あの時と今回は、似ているようで、実は全く違った空気が支配していたのではないかと思います。あの時は不安から出発していました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)。「はじめに人間の意志ありき」です。金の子牛製作は、それを実現するための事業でした。その民衆のリクエストに応えて、アロンが材料となる金を徴収する。
「あなたたちの妻、息子、娘らが身につけている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」(32:2)。
こちらは、自ら進んで心からささげたのではありません。いわば強制的です。それに従わないと、どうなるかわからないという恐れと不安が支配しています。それゆえに、不満があふれています。みんな仕方なく応じました。隠していた人がいたとしたら、「お前はどうして出さないのだ。みんな平等に分担すべきではないか」と非難したことでしょう。税金のようなものです。
ところが、今日の箇所では違います。出さない人がいてもいいのです。出したい人が出す。ささげたい人がささげる。だから誰も文句を言わない。多くを持っている人、余裕のある人はきっと多く出したでしょうが、そうでない人もいたかも知れません。それでいいのです。それでも誰も不満を言わない。反対に、少なくしか持っていないにもかかわらず、多く出した人もあるでしょう。それでいいのです。喜んでささげているのです。その人は、自分が損をしたとは思っていなかったでありましょう。
私は、これは今日の教会と同じだなと思いました。教会というところは、不思議な集団です。この世の組織ではありえないようなことが、ここで起こっている。ささげたい人の自由なささげ物によって、成り立っているのです。普通は、他のことでは譲り合っていても、お金のことになると、とたんにぎすぎすしてくるものです。家族の間、兄弟の間でもそういうことがしばしば起きます。
公的事業は、税金でまかなわれますが、少しでも自分が損をしているようだと不満が出てくる。それは、あの金の子牛製作の時と同じです。自分たちで計画を立てて、それに必要なお金を税金として徴収する。税金となると、みんなあまり出したくありません。「なんで私がこんなに出さなければならないのか。もっといっぱい持っているくせに出さない人がいるではないか」という話になっていきます。
しかし教会は違う原理で動いている。自由意志に基づいています。献金のことだけではありません。奉仕もそうです。礼拝当番、委員会活動。一番大変なのは長老さんです。みんなボランティアで一生懸命働いてくださっています。そのようにして、教会は自由な奉仕と自由な献金で保たれてきたのです。外から見ると、どうしてそんなことが成り立つのだと思われるのではないでしょうか。
もっとも教会の中でも、時々、不満の声が出てくることもあります。「自分はこんなにやっているのに、あの人はなんで、もっとしてくれないのか。」奉仕活動についても、ぎすぎすしてくることがあります。「あの人は無責任だ。」しかし私は、「みんなボランティアでやっているんだから、もっと楽しく、喜んでやりましょうよ」というのです。「楽しくなければ教会じゃない」というと、言い過ぎかも知れませんが、でもそうでなければ、つまり喜びに満ちていなければ、誰も来ないでしょう。「来てよかった。また来たい。」それが健全な教会です。「教会に来ると、どっと疲れが出てくる。」それは教会が病んでいるしるしです。そういう時は、教会自身が、信仰によって、健康を回復していかなければなりません。
「また、あなたたちのうちの、心に知恵のある者をすべて集めて、主が命じられた物をことごとく作らせなさい」(10節)。「心に知恵のある者」とは、「職人としての専門的な技術、熟練、ノウハウを知っている者」というような意味です。神様がご計画を実現するために、ある人たちに知識と技術を与えながら、召しておられるのです。25節にも、「心に知恵を持つ女は皆、自分の手で紡ぎ、紡いだ青、紫、緋色の毛糸および亜麻糸を携えて来た」とあります。
必要な材料と同時に、必要な人材も集められた。知識や技術をもっている人。建築の技術。絵の才能。紡ぎ方を知っている人。ぞくぞくと集められるのです。みんな、「心動かされて」やってきたのです。お金のためではありません。「自分の賜物が生かされるならば、こんなにうれしいことはない」と思った人たちです。
これも今日の教会に通じるものでしょう。教会の中には、さまざまな賜物を持っている人たちがあります。そしてそれを出し惜しみなく、教会のために、神様の御用のためにご提供くださるのです。
音楽の賜物を持った方。美術の賜物を持った方。書道の賜物を持った方。コンピューターの賜物を持った方。子どもが好きな方。人のお世話をするのが好きな方。話が上手な方。話を聴くのが上手な方。きめ細やかな方。大局的にものを見通せる方。論理思考に強い方。文章を書くのが得意な方。編集能力のある方。英語ができる方。いろんな賜物があります。
「自分には何もない」と思われる方もあるかも知れませんが、そんなことは決してありません。忙しい中で、教会に来る時間を何とか確保して、ここに来ておられる方もあるでしょう。それ自体が証であると思います。年をとったために何もできないと思われる方もあるかも知れません。しかしその方々も存在そのものが大きな証であり、奉仕であるのです。私たちが最後までできることは祈りでありますが、祈り自身が大切な奉仕ではないでしょうか。
35章30節以下には、こう記されています。
「ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。主は、彼とダン族のアヒサマクの子オホリアブに、知恵の心を満た……された」(35:30〜35)。
召し出しつつ、それに必要なものを随時、与えてくださるのです。しかも人に教えるという教育者の才能まで与えてくださっています。
神様の御用のためにその賜物をささげるという時にも、同じことがあるのではないでしょうか。つまり、やっていくうちにだんだんと育てられ、磨きがかかってくるのです。教会でも、しばしばそういうことがあります。オルガンの奏楽や美術の奉仕、コンピューターの操作など、奉仕しながら、技術が高められていくことがあると思います。教会というのは、つくづく不思議な集団だな、と思わされますが、そのルーツがここに記されているようです。
29節には、このように記されています。
「モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た」(29節)。「随意の献げ物」とあります。一定の金額の会費でもないし、税金でもない。しかも中身も違う。それぞれができることをしたのです。男も女もいる。お年よりも若者もいたことでしょう。できることは、みんなそれぞれ違う。しかしみんなが、「自分は何ができるかな」と考えました。ここに幕屋建設という一大事業のために、労力と資源と知恵と技術が結集されたのです。それがどんどん、どんどん集まってきたのです。
「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および主から心に知恵を授けられた、心に知恵のあるすべての者、すなわち、心動かされたすべての者をこの仕事に従事させるために呼び集めた」(36:2)。
そこから先も、人や物がどんどん集まってきました。とうとう指導者たちは、モーセにこう言いました。
「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます」(36:5)。集まりすぎたのです。うれしい悲鳴です。困る程に集まってきてしまった。それで、ついにモーセがストップをかけます。
「モーセが宿営に、『男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない』との命令を伝えさせたので、民は携えて行くのをやめた。既にささげられた物は、作業全体を仕上げるのに十分で有り余る程であった」(6〜7節)。「はい、ストップ。そこまで。」
使徒言行録に記されている初代教会も、そういう自由な空気に満ちていました。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒4:32)とあります。
この人たちも心動かされた人々でありました。なぜそのように心を動かされたのか。それは、彼らがそれ以前に、神様の大いなる業を見ていたからであります。神様の大きな御業、恵みの御業を見る時に、自分も進んでそこに参加していく者とされるのではないでしょうか。
出エジプトの民は、エジプトから導き出してくださったという大きな恵みの御業を見ていました。そして、この直前には、自分たちが罪を犯したにもかかわらず、それを赦してくださったという恵みを経験しました。その恵みの主の招きに、彼らは応えたいと思ったのです。
私たちのためには、イエス・キリストが大きな御業をなしてくださったということを信仰の原点として、心に留めたいと思うのです。イエス・キリストは、私たちのために、まず喜んで、ご自分を差し出してくださった。その神様のために、イエス・キリストのために、私たちも喜んで従っていく、そのようなクリスチャンになりたいと思います。