主の栄光、幕屋に満ち

〜出エジプト記講解説教(47)〜
出エジプト記39章32〜43節、40章28〜38節
コリントの信徒への手紙一3章10〜17節
2007年2月11日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)出エジプト記を振り返って

 出エジプト記を5年間、少しずつ読み進めてきましたが、いよいよ今日で最後であります。モーセの誕生に始まり、イスラエルの奴隷の子として生まれながら、エジプトの王女の養子として育てられるというモーセの不思議な運命と生い立ち。奴隷が虐げられるのを見過ごしにできず、かばってやり、エジプト人を殺してしまう。モーセは、ミディアンの地に逃げ、そこで妻ツィッポラと出会い、しゅうとエトロと出会いました。そのまま一生をミディアンの地で過ごせればと思っていたモーセを、主なる神は、エジプトへと呼び戻しました。イスラエルの民をエジプトの国、奴隷の地から導き出すためであります。モーセは、ようやく重い腰をあげ、この神様の大切な役割のために立ち上がったのでありました。
 しかしエジプトのファラオも、やすやすと去らせてはくれません。モーセは神様の力を借りて、ナイル川の水を血に変えたり、かえるやぶよやいなごの大群を呼び出したりして、またさらに暗闇を送ったりします。さまざまな災いによって、ファラオに圧力をかけます。ファラオは、何度も「もう出て行ってもよい。出て行け」と言うのですが、翌日になると、言葉を翻して、彼らを去らせることはいたしませんでした。
 ついに神様は最後の災いの計画をモーセに告げます。それはエジプト中のすべての初子(人も動物も)を撃つというものでした。しかし、家の入り口、二本の柱と鴨居に犠牲の小羊の血を塗った家だけは、「災いを過ぎ越す」というお告げがあり、その通りになりました。

 「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちには及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる」(12:12〜14)。

(2)過ぎ越しから1年後

 これがイスラエルの民の原体験でありました。過ぎ越し、そして出エジプト。この出発を、第一年の一月一日として数えるようになりました。
 今日の聖書箇所、40章の17節に、「第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた」とあります。つまり2年目の1月1日、この日に幕屋が建てられたというのです。あの過ぎ越しの出来事からまだ1年しか経っていなかったということが、ここから分かります。私の説教自体がもっと時間をかけて行ってきましたので、何かもう随分日が経ったように思えるかも知れませんが、聖書の記述によれば、過越の出来事からちょうど1年経った日に幕屋が建てられたということであります。
 もっとも1月1日と言っても、今日の私たちの暦とは違います。春分の日の頃であります。むしろ、これはイースターと関係があります。イースターは、イエス・キリストの十字架と復活が、この過越祭の時に起きたということから、毎年春分の日の次の満月の次の日曜日と定められております。
 そのルーツをたどってみますと、イエス・キリストの十字架も、出エジプトの過ぎ越しにちなんだものです。私たちの信仰の物語が、すでにここから始まっているのです。出発してから1年が経ち、幕屋が完成した。これでようやく荒れ野の40年の旅支度が完全に整ったといってもよいでしょう。
 エジプトを脱出した民は、ここにいたるまでもさまざまな苦労と経験をいたしました。荒れ野で、飢えと空腹にも悩まされましたが、神様がマナという不思議な食べ物と、また岩の間から水を与えられました。
 幕屋建設の指示は、モーセがシナイ山で神様から十戒とその他の律法をいただいた直後に行われました。
 そして今、その指示通りに幕屋が建設されていくのです。これまでは、雲の柱、火の柱が、イスラエルの民を導きましたが、ここから先は、幕屋が、神様が共におられるしるしとなります。ですから、この幕屋建設の命令と実行は、出エジプト記の締めくくりであり、同時にひとつの頂点でもあります。彼らはそれを忠実に仕上げていったのです。
 私たちからすれば、どうしてこんなに煩瑣なことまで記しているのかと思ってしまいますが、そこには彼らの執念とでも言えるような思い、「ひとつも落としてはならない。間違えてはならない」という思いが込められているのです。

(3)幕屋の祭具の製作(36〜39章)

 前回は35章から36章7節までを扱いまして、イスラエルの民が心から進んで、喜んでささげものをしたということを、共に読みました。どんどん、みんなのささげものが集まってきまして、モーセが「これで十分。ストップ」というまで集まりました。
 いよいよ作業が始まっていきます。新共同訳聖書のタイトルのみを拾って読みますと、「幕屋を覆う幕」(36:8〜19)、「幕屋の壁板と横木」(36:20〜34)、「至聖所の垂れ幕」(36:35〜36)、「天幕の入り口の幕」(36:37〜38)、「掟の箱」(37:1〜5)、「贖いの座」(37:6〜9)、「机」(37:10〜16)、「燭台」(37:17〜24)、「香をたく祭壇」(37:25〜29)、「祭壇」(38:1〜8)、「幕屋を囲む庭」(38:9〜20)と続きます。39章は、アロンの祭服の製作でありますが、「エフォド(祭儀用の華麗な衣服)」(39:2〜7)、「胸当て」(39:8〜21)、「上着」(39:22〜26)、「その他の衣服」(39:27〜31)と、さらに細かく記されています。そのようにして、幕屋建設の準備が完了しました

(4)命令、実行、祝福

 今日は、その続きである39章32節以下を読んでいただきました。「幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った。」
「主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った。」これが、今日の箇所のキーワードであります。
 この言葉に続けて、何を製作したかが事細かく繰り返して紹介され、42節で、再びこう記されるのです。「イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。モーセがそのすべての仕事を見たところ、彼らは主が命じられたとおり、そのとおり行っていたので、モーセは彼らを祝福した」(39:42〜43)。
 神様の命令が語られる。その言葉のとおりに実現される。そしてそれが祝福される。この三つの段階は、天地創造を思い起こさせるものではないでしょうか。
 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。
 神の臨在の幕屋は、この天地創造のあの壮大な世界を映し出すものと見られていました。この幕屋で行われた礼拝というのは、天地創造のはじめの世界を望み見ながら、そこにおける神の祝福を身に受けて、そして現実の中を生き抜く力を得るものであったからです。それは、今日の私たちの礼拝にも通じるものでありましょう。神様の創られた世界を仰ぎ見ながら、そこで祝福を新たにいただいて、現実の中を生き抜く力をいただくのです。

(5)主が命じられたとおりであった

 さて、それでいよいよ最後の40章へと進んでいきます。「幕屋建設の命令」と題されています。材料がすべてそろったので、いよいよこれから組み立てられるのです。最初の1〜15節はモーセに対する神様の命令であり、16〜33節はモーセによって、それが実行されたという報告です。
 16節には、こう記されています。「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った。」これをつなぎといたしまして、17節以下に、「これこれをした」ということが出てくるのですが、それぞれのフレーズの最後に同じ言葉が出てきます。まず19節、「主がモーセに命じられたとおりであった。」次いで21節、「主がモーセに命じられたとおりであった。」23節、「主がモーセに命じられたとおりであった。」25節にも、27節にも、29節にも、31節にも同じ言葉が出てきます。「主がモーセに命じられたとおりであった。」これがキーワードです。
一つ作業が進むごとに、「主が命じられたとおりであった」という同じ言葉が繰り返されるのです。全部で7回。これは、すべては主の命令に寸分違わず行われたということの表現であります。これもまた天地創造が7日間の神の言葉とそのとおりにできあがっていったということを思い起こさせるものでありましょう。
 そして33節、「最後に、幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の入り口に幕を掛けた。モーセはこうして、その仕事を終えた」とあります。モーセは、ここでその大きな事業を完了したのです。

(6)十字架で「成し遂げられた」

 「モーセはこうして、その仕事を終えた」という記述は、天地創造の他に、もう一つ大事なことを思い起こさせてくれるものであります。それはイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは十字架にかけられることを、神様の仕事の完成として受け止めておられた。そして事実、その通りでありました。
 ヨハネ福音書は、こう記します。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハネ19:28)。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)。
 天地が創られた。モーセは、それを思い起こしながら、自分に課せられた大事な使命、幕屋の建設を全ういたしました。
この後も、モーセの旅はまだまだ続いていきます。レビ記、民数記、申命記と続きまして、モーセの旅は、申命記の途中で終わります。約束の地カナンを目指しながら、そこに入ることは許されませんでした。ネボ山の上から、約束カナンをはるかに仰ぎ見ながら、死んでいきます。そのようにモーセの生涯は大きな業をなしたものでありましたけれども、約束の地に導くという大事業は、モーセで完結するものではありませんでした。私は、このモーセの偉大な働きを見る時にも、神様の計画というのは、一人の人間で終わるのではなく、それが誰かによって代わって担われていくものだということを改めて思うのです。
 モーセは、イエス・キリストをはるかに仰ぎ見て、その途上で、神様の御手に委ねた、ということもできるかも知れません。イエス・キリストの十字架の御業は、天地創造に匹敵するもの、あるいは、天地創造によって始められた神様のご計画が完結するものでありました。このイエス・キリストを土台として、私たちもそれぞれの幕屋、それぞれの神殿、それぞれの建物を建てていくように命じられているのです。

(7)イエス・キリストという土台

 先ほどはコリントの信徒への手紙一3章10節以下を読んでいただきました。

「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように立てるかに注意すべきです。イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(一コリント3:10〜11)。

 私たちは、イエス・キリストを土台として建てられる神の建物です。その土台とは、あの十字架によってすでに「成し遂げられた」、「完成した」ものです。堅い、確実なものです。あとは、私たち自身が、いかに自分自身の建物をその上に建てていくか。個人個人の歩みだけではなくて、教会の歩みもそうでしょう。また私たちの人生もしばしば、旅にたとえられます。実際に旅のような人生を送る人もあります。また同じところにい続ける人であっても、やはりこの世の旅路を生き抜くのであります。
 「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。……雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。……旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」(出40:34〜38)。
 「しるし」が与えられていたのです。このしるし、導きによって、彼らは旅を続けることができたのでした。
 先月末に、オーストリア・ザルツブルクの田中通恵さんを訪ねる旅を実現することができました。田中さんにとっても、今日に至るまで人生は大きな旅路のようなものでありました。今もまだその旅を続けておられるわけですが、90歳で住み慣れた日本を離れて、オーストリアへ移住するというのは大きな決断であったと思います。思いのほか(と言えば失礼ですが)、ドイツ語をよく使いこなして、オーストリアでの生活を楽しんでおられることをうれしく思いましたが、その根底には、旅を導いてくださるのは、神様である、確かなしるしを与えてくださる、という信仰があったからできた出発ではないでしょうか。
 私たちは、この東京にあって、またそれぞれの場所にあって、確かなキリストの土台の上に自分を築きながら、道しるべを見て、旅を続けていきましょう。


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