〜出エジプト記講解説教・続編(2)〜
申命記8章2〜18節
マタイによる福音書4章1〜11節
2007年3月11日 経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
私たちは、今、主イエスの十字架の苦難を心に留める受難節の中を歩んでおります。受難節は、イースターの前の、日曜日を除く40日間と定められています。この40日間というのは、イエス・キリストが40日間、荒れ野で、誘惑と苦しみを受けられたこと、さらにさかのぼれば、出エジプトの民の荒れ野の40年にちなんだものでありますが、私たちは、今、この両方を見据えて御言葉を聞こうとしております。
マタイ福音書4章1節以下に、こう記されていました。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(マタイ4:1〜3)。
イエス・キリストは、荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けられるのですが、一つ目がこの「空腹」あるいは「飢え」という試練・誘惑でありました。「空腹」というのは、いかにも人間的なものです。イエス・キリストがただ神の子として、私たち普通の人間とは違う高いところに立っておられたのではなく、私たちと同じ高さ、低さで、私たちと同じ悩み、苦しみを共有されたのだということを思わせられます。
ヘブライ人への手紙4章15節には、こういう言葉があります。「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
私たち人間にとって最も切実な問題は、どうやって生きていくか、どうやって食べていくか、ということでありましょう。食べ物のことです。これが根本問題です。この保障なくしては、どんなに高尚な話をしても、人生の問題の解決にはならないのです。ですからイエス・キリストも、「主の祈り」で、「罪の赦し」や「試みや悪からの救い出し」を祈るよりも前に、「日用の糧」の祈りを教えられたのです。
イエス・キリストは、悪魔の誘惑に対して、こう答えられました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。(マタイ4:4)。確かに、神の子イエス・キリストであれば、悪魔の言ったように、石をパンに変えることも可能であったでしょう。しかし、イエス・キリストは神の子としての力、奇跡を起こす力を、自分のためには用いられなかったのです。そこで奇跡で石をパンに変えて食べるということは、私たちと同列ではなくなるということを意味しています。また神に信頼することをやめて、神の声ではない他の声に聞き従うことでありました。
神様は決して、私たちを飢えさせて困らせようとしているのではない。必ずや必要なパンを与えてくださる。その信仰、その信頼こそが私たちを生かすのです。ですから、この言葉の後半の「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉の中にこそ、深いメッセージがあります。
「人はパンだけで生きるものではない」というのは、時々、イエス・キリストの言葉であると思われていますが、厳密に言えば、イエス・キリストは(旧約)聖書の言葉を引用されたのでした。この言葉のオリジナルがどこにあるか。それが先ほどお読みいただきました申命記8章なのです。
これは出エジプトの後、40年間荒れ野の旅をし、ようやく約束の地カナンに入ろうとしているイスラエルの民に向かって語ったモーセの言葉です。
「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(2節)。
この時、みんなの気持ちはゴールを目前にして、前へ前へと向かっていたことでしょう。胸が高鳴ります。希望が膨らみます。それはちょうどすでに大学に合格し、入学を待っている人、また就職試験に合格し、実際に新しい生活が始まる直前の人のようです。あるいは結婚式の前夜、と言ってもいいかも知れません。新しい生活がもうそこまで来ている。その約束はすでに手に入れている。しかしまだ始まっていない。そのような状況です。
モーセは、そういう時にこそ、過去を振り返れ、というのです。「苦しいこともあったであろう。つらいこともあったであろう。その時、あなたたちはどんな気持ちで過ごしていたか。そこにも実は神様の御心はあったのだ。あなたたちが見放されたように感じた時も、すでに神様の御心は存在していたのだ。そのような試練を通して、あなたたちの心を吟味しようとされたのだ。」しかしその吟味はふるいわけるためではなく、信仰へと導くためでありました。それは続きを見れば、わかります。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(3節)。
ここに試練の目的が書かれています。 神様は苦しめ、飢えさせるだけではなく、直後にマナを与えられた。(マナというのは、天から降ってくる不思議な食べ物です。)私たちが自分で働いて得たのだと思わないためです。つまり直接、食べ物を与えることによって、本当に養っておられるのが誰であるかを伝え、それによって、人は根源的には、神様によって生かされて生きているのだということを伝えようとされたのです。だから試練を与えるだけではなく、ちゃんと養ってくださった。
「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(4節)。必要なものはすべて与えられた。振り返ってみれば、それがわかるだろうというのです。「あなたは人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)。
私たちは試練の中にある時にこそ、この言葉を思い起こしたいと思います。振り返ってみれば、それがわかるのですが、試練のただ中にある時には、それが見えなくなります。「どうしてこういう目にあわなければならないのか。見捨てられているんじゃないか。」そうではない。見捨てず、ちゃんと養い、また逃れの道を備えてくださっているのです(コリント一10:13)。
なぜそんなことをなさるのか。愛しておられるからです。訓練するためです。親が子を訓練するのは当たり前。神様もそのようにして、愛する私たちを訓練されるのです。それはやがてより大きな試練に出会った時、それを乗り越えられるように。そして神様に立ち帰って行くためであります。モーセは、ここで最終目的、神様の試練の本当の目的を語ります。「(主は)あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(16節)。「ついには幸福にするため」、ここに神様の御心があります。
しかしなぜ神様に立ち帰ることが幸福につながるのか。それは、人間というものがそのように創られているからと言えるのではないでしょうか。こう語ったのは、アウグスティヌスです。アウグスティヌスは、その著書『告白』の冒頭で、こう言っています。
「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです。」(1巻1章)。
神様は私たち人間を自由な意志をもつものとしてお造りになりました。ですから、私たちは神様の方を向いて生きることも自由だし、神様に背を向けて生きることも許されています。しかし神様に背を向けて生きる時、そこには本当の安らぎはない。うまくかみ合わないパズルのようなものです。神様が人間の方を向いている。私たちも神様の方を向いて創られている。それは共に向き合っている形です。横を向いていても、背を向けていてもいいのだけれども、何かガタガタしてぴったりはまらない。あっちを向いてみたり、こっちを向いてみたり。落ちつかないのです。何か間違っている。しかしそれをずーっと動かしている間に、ぴたっとはまる場所がある。それが神様の方を向いて生きるということです。そこで私たちは本当の安らぎを得るのであり、本当の幸福を得るのです。
アウグスティヌス自身が、いろんなことを経験しながら、最後に到着した心境でありました。そこにこそ、私たちが本当に幸福を得る道があるのです。
幸福とは何でしょうか。それは必ずしも富を得ることではないでしょう。富はかえって人を幸福から遠ざける危険もあります。なぜなら、それは人を傲慢にするからです。そして神を忘れさせるからです。モーセも今や、夢を実現しようとしているイスラエルの民に向かって、こう言うのです。
「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」(11〜14節)。
モーセは、人がひとたび、富や地位や名誉を手にしたら、どういう風になるかを見抜いています。どんな人でもそうだ。
そしてこの言葉と先ほどの言葉を照らし合わせれば、人が傲慢になる、そこには本当の幸福はないということを語っているように思います。
苦しい時には真剣に祈っていたのに、そうでなくなると、祈ることすらやめてしまう。苦しい時には、神様はすぐそこ、手に届くところに感じていたのに、そうでなくなると、神様がわからなくなってしまう。
私たちを神から引き離すものは、ありとあらゆる方向から近づいてきます。困難、苦難が続く時に、「どうして神様はこんなことをなさるのか」と疑います。「神様がいたらこんなことをなさるはずがない。神様なんていないのだ。」これも誘惑です。逆に、富や名誉や成功も私たちを傲慢にし、神様から引き離してしまうのです。それでいて、富や名誉や成功は、私たちをそこによりかかってしか生きられない人間にしてしまう。これも悪魔の巧みな誘惑でしょう。
しかし聖書は富そのものが罪とは言っておりません。大きな誘惑だと言っているのです。富そのものは、神様からの祝福でもあります。モーセはこう言うのです。
「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(17〜18節)。
私たちは、自分で働いて、お金を得て、そして食べ物を得ます。それは自分の力でやっていることだと思っています。あるレベルでは、もちろんそれは正しいことですが、しかしそのような営みそのものが、神様の支えなしには、成り立たないということをわきまえておくべきでありましょう。
この申命記8章のモーセの言葉は、貧しさと豊かさ、試練と成功、この両方を見据えています。両方の境遇にいる人間に向かって、神に立ち帰るようにと勧めるのです。使徒パウロはこういう風に言っております。
「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(フィリピ4:11)。
その秘訣とは何でしょうか。それは、神を信頼すること以外ではありません。そこにこそ、わたしたちが憩いを得る場所があり、幸福に生きる道があるからです。いわば、パズルのはまりどころです。ですから、私たちが試練のただ中にある時も、成功とこの世的な意味での幸福の中にある時も、この言葉を思い起こしたいと思うのです。
モーセは、なぜこの時にこの言葉を語ったのでしょうか。一つには、彼自身が約束の地に入ることを許されなかったからでありますが、もう一つ、人々はゴールに到達し、いわば、富を手にした時、聞く耳をもたなくなってしまうからでしょう。ですから、その直前に、新しい生活において大事なことを、いわば遺言のようにして語ったのだと思います。
最後に、箴言の有名な言葉を皆さんと分かち合いたいと思います。
「二つのことをあなたに願います。
わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を
わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず
わたしのために定められたパンで、
わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り、
主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き
わたしの神の御名を汚しかねません。」
(箴言30章7〜9節)
神様と共にある平安を得て、神様と共にある幸福を手にしていただきたいと思います。