キリストにならいて

〜フィリピ書による説教(4)〜
創世記28章10〜15節
フィリピの信徒への手紙2章1〜11節
2007年7月1日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1) 利己心や虚栄心

 フィリピの信徒への手紙第1章27節以下において、パウロは「信仰生活の戦い」について述べていました。「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても反対者たちに脅されてたじろぐことはない。」
 この戦いは、主に信仰共同体(教会)の外にある「敵(反対者)」に対する戦いでありました。それに続く2章の冒頭では、その戦いは、外に対してだけではない、まさに内側にも存在するということを語るのです。その敵とは、「利己心や虚栄心」であります。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3〜4節)。

 「利己心や虚栄心」というのは、教会を建てるのではなく、崩壊させます。それは、実はパウロの時代、初代教会の時代からすでに存在していたのです。コリントの教会だけではなく、パウロの愛してやまなかったフィリピの教会においても、そうでありました。パウロは、教会の中に存在する不穏な空気を、遠く離れた街の牢屋の中から嗅ぎ取っていたのでしょう。何が教会を建て、何が教会を危うくさせるか。パウロは、そのことについて、研ぎ澄まされた感覚を持っていました。
 教会は、最初はよかったのだけれども、だんだんと堕落していったというのではありません。ローマ・カトリック教会が「利己心や虚栄心」から堕落して宗教改革が起こり、教会は無事に健全になったというのではありません。むしろ教会のこの2千年間は、この内なる敵との戦いであったとさえ言えるでありましょう。
 このことは、誰よりもまず、牧師である私自身が心して聞かなければならない言葉であると思っております。
 そこで私たちがなすべきことは何か。「利己心と虚栄心」のぶつかり合いの中で、私たちは自分の主張を通そうとする。そのところで冷静さを失い、相手が見えなくなります。パウロは、素直な言葉で、こう語るのです。「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」何と、至極当たり前のことを言っていることでしょうか。みんながこの精神をわきまえれば、この世界に争い、戦争などなくなるのではないか、という気さえします。

(2)心を合わせ、思いを一つにする

 しかし私たち人間は、それでもなかなかそれを聞くことができない頑なな者であります。パウロはその至極当たり前な、この結論へ導くために、何を勧めたか。それは、福音の原点に立ち、思いを一つにして、同じところから共にキリストを見上げるということでありました。
 キリストが私たちのために、一体何をなしてくださったか。それぞれにそのことを思い起こし、そこへ立ち返りなさいというのです。教会は、キリストの福音によって、立ちもし、倒れもします。教会が、キリストの福音以外の何かによって立とうとするならば、それはもはや教会とは言えないでありましょう。
 パウロは、切々と訴えるように語ります。

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(1〜2節)。

 パウロは、教会の一致を生み出す力として、四つのことを語りました。
第一は、「キリストによる励まし」であります。神がキリストにおいて、人々に与える励まし。イエス・キリストが何をなしてくださったか。その恵みを思い起こすことそのものが励ましです。苦難の状況の中で、その恵みが私たちを支えるのです。
第二は、「愛の慰め」です。神様の愛に基づき、それにならってお互いに愛し合うこと。これが二つ目です。
第三は、「"霊"による交わり」です。聖霊と私たち一人一人の間に交わりがあり、さらにその聖霊がとりなし手となって、私たち同士の間に、霊的な交わりが形成されることになります。
 さて以上の三つの言葉は、三位一体の神の祝祷を思い起こさせるものではないでしょうか。礼拝の終わりでなされる祝祷の基本的な形は、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(コリント二13:13)という祈りであります。
 「キリストによる励まし」というのは、先ほど申し上げましたように、「主イエス・キリストの恵み」から来る励ましですし、「愛の慰め」は「神の愛」の慰めに他なりません。「"霊"による交わり」にいたっては「聖霊の交わり」そのものです。まさにそのことを、今パウロは、フィリピの人に思い起こさせようとしているのです。
 そして第四として、それらに「慈しみや憐れみの心」を付け加えました。これもイエス・キリストから、私たちがいただいているものです。
 パウロは、フィリピの人たちに向かって、「それがあなたがたに幾らかでも(ほんの少しでも)あるなら」と語ります。
「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2節)。この四つは、先ほどの四つの句に一つずつ対応しているようです。
特に「同じ愛を抱き」は「愛の慰め」に対応していますし、「心を合わせ」は「"霊"による交わり」に対応しています。「思いを一つにして」も「慈しみや憐れみの心」に対応しているようです。そのようにして、「わたしの喜びを満たしてください」と訴えます。生みの親としての親心で、フィリピの教会のことを心配しているのです。

(3)へりくだった心

 そこからパウロは、最初に引用した言葉へつなぎます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」(3〜4節)。
 前の口語訳聖書では、この「利己心」というのを「党派心」と訳していました。教会の中にも意見の対立があり、党派が生まれていたのでしょう。この「党派心」「利己心」の反対が「へりくだった心」です。
 パウロ自身は、その意見の詳細を知っていたとすれば、ある程度どっちが正しいというような判断も持っていたかも知れません。しかし彼はむしろそれを明らかにしない方が懸命だと思ったのではないでしょうか。どちらか一方に、この勧めを語るのではなく、その両方の立場の人に向かって、「他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」と言うのです。お互いが相手に対してリスペクト(敬意)を持つことで、冷静になり、何が問題の本質であるかを、むしろ自分たちで気づくことを望んだのではないでしょうか。

(4)「キリスト賛歌」前半−謙卑

 パウロは、「へりくだった心」「相手を思いやる心」、それは「キリスト・イエスにも見られるものです」とつなぎ、当時の賛美歌を用いて、キリストがどういうお方であるかを語ります。
 ここに書かれている言葉は、「キリスト賛歌」と呼ばれるもので、整った韻文(詩の形式)になっています。当時、このような賛美歌が存在し、パウロはそれを引用したのだと言われます。パウロの文体ではなく、パウロが使わないような語彙がたくさん使われているからであります。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(6節)。
 この「キリスト」というのは、2000年前に、「ナザレのイエス」(人間イエス)として来られるよりも、もっと前の話です。神学的には「先在のキリスト」と言います。このお方は、父なる神と共に、天地創造の時からおられた。コロサイの信徒への手紙では、次のように述べられています。「万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1:16〜17)。
 しかしながら、その「御子キリスト」は、父なる神と等しい者であることに固執しなかった。自分を無にして、人間になった。僕の身分になった。クリスマスの出来事を表しています。
 「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(7〜8節)。
 さきの言葉がクリスマスを指しているとすれば、こちらは受難の出来事を指しています。「それも十字架の死に至るまで」というのは、元のキリスト賛歌にはなかった、パウロが強調してこれを付け加えたのだろう、と言われます。流暢な韻文の流れが、ここで一旦途切れるのです。
パウロは、ここで恐らくあのイザヤ書53章の「苦難の僕」に、イエス・キリストの十字架を重ねながら、その十字架にこそ、イエス・キリストの従順な姿、へりくだりの姿の究極があると見ました。この「へりくだり」を「キリストの謙卑(けんぴ)」という言い方をすることもあります。

(5)「キリスト賛歌」後半−高挙

 そしてそれを語った後、9節以下はキリスト賛歌の後半です。ここで主語が変わります。それまでは「キリスト」が主語でありましたが、ここからは「神」が主語になります。それまではキリストのへりくだりを語っていましたが、ここからは、神様による「キリストの高挙」が語られます。

「このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と、公に宣べて、父である神をたたえるのです」(9〜11節)。

 「天上のもの、地上のもの、地下のもの」というのは、この当時の三階建ての世界観を表しています。そうした表現を通して、神様の大きな目的がここに示されます。それは「全世界のありとあらゆるものが、イエスの御名にひざまずくこと」、そして「すべての舌が、『イエス・キリストが主である』と告白すること」であります。キリストが降ってくる姿と、神様がそのキリストを高く挙げられる姿が、ここに対比的に歌われています。

(6)天から地へと伸びる階段

 今日は、旧約聖書の方は、創世記28章を読んでいただきました。
 ヤコブは、兄エサウに殺されそうになり、故郷を離れて叔父ラバンのもとに逃げていく途中の出来事であります。ヤコブは疲れ果てて、ある場所で野宿することになります。ヤコブは、石を枕にして眠りに落ち、そこで不思議な夢を見ました。
 「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創世記28:12)。
 この夢はなかなか興味深いものです。天と地の間に階段がある。しかしその階段は、地上から天へと伸びているのではなく、天から地に向かって伸びているのです。地上から天へ至る道をつけることはできません。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)という計画は、神様によってさえぎられました(バベルの塔)。
 天と地を結ぶ道は、あくまで天からのみつけられるのです。この夢はそれを指し示しているのだと思います。そしてその天地を結ぶ階段を神の御使い、すなわち天に属する者が上ったり下ったりしているのです。
 私はこの情景は、やがてイエス・キリストによって起こる出来事を指し示しているように思いました。それはまた、キリスト賛歌が語ることでもあります。天に属する者であるイエス・キリストが天から地に向かって伸びている階段を下りてくる。そしてまた、そこから天へと上っていくのです。それによって天と地がしっかりと結ばれました。そしてその道を、私たちもたどることが許されるのです。

(7)教会が立つべきところ

 パウロは、そのようなキリストの姿を描きながらに、お互いがへりくだって、相手を認め合いなさい。何よりも、イエス・キリストが私たちに先立って、それをなしてくださったことを思い起こしなさいと語ったのです。
 ヨハネ福音書の中で、イエス・キリストは、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と語られました。パウロの言葉も、まさにこのイエス・キリストの言葉に通じるものでありましょう。
 私たちは、このキリストの姿に目を留める時に、教会がいかなる歩みをすべきであるか、教会の立つべきところはどこなのか、何を見つめて教会形成をしなければならないのかが自ずと示されてくるのではないのではないでしょうか。
 私たちの教会も、今司会者のお祈りにもありましたように、また新しい時に向かって進んでいく大事な時を迎えています。このキリストの福音に基づいて、お互いに尊敬しあって、その道を見出していきたいと思います。


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