星のように輝く

〜フィリピ書による説教(5)〜
ダニエル書12章1〜4節
フィリピの信徒への手紙2章12〜18節
2007年7月22日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)「いない今はなおさら」

 前回は、キリスト賛歌と呼ばれる部分をご一緒にお読みしました。そこでは、「キリストの従順」ということが語られていました。「(キリストは)人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」(7〜8節)。パウロは、そこから「だから、あなたがたも、あのキリストのように従順でありなさい」と勧めるのです。それが今日の箇所の最初の言葉であります。
 「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)
 パウロは、「わたしが共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいて」と語ります。パウロが一緒にいた時は、いつも鮮やかにキリストの姿が見えていたのに、パウロがいなくなると、それがぼやけてしまったのかも知れません。
 信仰というのは不思議なものであります。普通の知識と違って、いつも、いつもキリストの姿に固着していなければ、それを見失ってしまうものです。既得の知識のようにならない。「わかった」と思ったとたんにわからなくなる。「見えた」と思ったとたんに見えなくなるのです。
 主イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9:39、41)。

(2)救いを達成するには

 パウロは、「自分の救いを達成するように努めなさい」と語るのですが、そう言われても、これは普通の努力では達成できない。自分でそれを得ようとすると、矛盾に陥ってしまいます。その矛盾に陥ったのは、あの「金持ちの青年」でありました(マタイ19:16〜22)。彼は、イエス・キリストに出会って、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問しました。パウロのこのところの表現を借りれば、「救いを達成するには、何をすればよいでしょうか」ということになるでしょうか。この金持ちの青年に対して、最初にイエス・キリストが言われたことは、要約すれば、「十戒に記されていることを守りなさい」ということでした。彼は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と問い返します。主イエスは言われます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(マタイ19:21)。金持ちの青年は、「それはできない」と思って立ち去っていきました。
 さて、救いを得るためにはどうすればよいのか。それは恐れおののきつつ、いつも従順であることであります。「従順」という日本語はやや弱いかも知れません。徹底的にキリストに従うことです。

(3)ボンヘッファー『キリストに従う』

 ボンヘッファーの中期の著作に『キリストに従う』という書物があります(1937年)。原題は、「Nachfolge」(ナッハフォルゲ)というのですが、これはドイツ語独特のニュアンスをもっており、訳すのが難しい言葉です。フォルゲだけで服従、従順という意味があります。それにNach(〜の後に)という接頭辞がついている。独和辞典では、「私淑」という訳語がありましたが、ボンヘッファーは必ずしもそういう意味で使ったのではありません。後に従う、信じて従うということで、「信従」「聴従」という訳語を当てる人もいます。
 この書物の中心部分は、マタイ福音書5〜7章のいわゆる「山上の説教」の詳しい解説でありますが、そこで徹底的にキリストに従うとは、どういうことであるかが述べられるのです。ボンヘッファーは、最初のところで、こう述べます。

「服従への招きは、イエス・キリストの人格のみに固着することであり、招きたもうかたの恵みによってあらゆる法則性を打破することである。その招きは恵みの招きであり、恵みの戒めである。キリストが招き、弟子が従う。それは恵みと戒めをひとつにしたものである」(邦訳、p.35)。

 イエス・キリストを信じるというのは、どういうことでしょうか。それはイエス・キリストの「私に従いなさい」という招きに「はい」と答えて従っていくことに他なりません。「はい」と答えながら、従わないのでは、信じたことにならないのです。ボンヘッファーは、それをこういう言葉で表現します。

「信ずる者だけが従順であり、従順なものだけが信ずるということである」(p.41)。「信仰はただ従順の中においてのみ存在し、従順なしに信仰は信仰であることができない、また、信仰は従順の行為においてのみ信仰である」(p.42)。

 ボンヘッファーは、「信じる」ことと「従う」ことを切り離さずに考察しながら、とても興味深いことを語ります。

「信じるならば、第一歩を踏み出せ!その第一歩がイエス・キリストに通ずるのである。信じないならば、同じく第一歩を踏み出せ。それはあなたに命じられていることである。あなたが信じているかどうかを問う問いは、あなたにゆだねられているのではない。従順の行為こそあなたに命じられているのであって、それは即刻なされるべきものである。その行為においてこそ、信仰が可能となり、また信仰が現実に存在する状況は与えられるのである」(p.47)。

 いかがでしょうか。この言葉は示唆にとんだ驚くべき言葉です。私は「なるほど、そうか」と目から鱗が落ちたような思いがすると同時に、厳しい問いかけだとも思いました。私たちは、「神様を信じられない。キリストを信じられない」と思うことがあります。信じられないものを無理矢理「信じろ」と言われても無理でしょう。ボンヘッファーは、それはどちらでもいいことだというのです。むしろ問われていることは、「従いなさい」ということだと言うのです。「従う」という行為、それはいわば、疑いがあってもできることです。むしろその「従う」という行為の中で、むしろ「信仰」が可能になっていくのです。
 私たちは、信仰告白をして洗礼を受けます。その時に「信じます」と言います。しかしその内実は、イエス様の招きに「はい」と答えて「従います」ということを意味しています。決断なのです。

(4)恐れとおののき

 パウロは、そこで「恐れおののきつつ」と語ります。『恐れとおののき』という書物を書いたのは、キルケゴールでありますが、彼はその書物の中でアブラハムの「信仰」について語りました。しかしキルケゴールの語る「信仰」というのも、アブラハムの「服従の行為」でありました。
 信仰には、いつも「恐れとおののき」があります。それがなくなり、「要するに信仰とはこういうこと」という風に一つの論理になっていく時、いつのまにか神様を置き去りにしてしまいます。私たちは、信仰の事柄、教会の事柄について考える時、片時もこの「恐れとおののき」を手放してはならないのです。これもまた、牧師である私自身が、誰よりも先に、肝に銘じておくべきことでありましょう。
 この礼拝も恐れとおののきがなければ、「讃美歌付きの講演会」と変わらなくなってしまうのではないでしょうか。「神さまがこの場におられることを信じて、恐れとおののきをもって、御前にひれ伏す。」それが礼拝です。
 しかしそうした従順、服従を可能にしてくれるものは、何なのか。それは私たちの側からすれば、神様に固着し続けることでしょう。祈りの生活を続けることでしょう。しかし、そうした生活も含めて、それを本当に可能にしてくださるのは、神様に他なりません。パウロは、こう続けます。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(13〜14節)。ただ服従が問われているのです。

(5)「星のように輝く」とは

「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって、星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(15〜16節)。

 自分自身では意識せずとも、その証の生活が、世の光となる。「あなたがたは世の光である」とおっしゃったのは、イエス様です(マタイ5:14)。
「星のように輝く」というのは、美しい言葉です。この言葉をパウロが書いた時には、先ほどお読みいただいた旧約聖書ダニエル書の言葉が頭にあったのだと思います。

「その時、大天使長ミカエルが立つ。
彼はお前の民の子らを守護する。
その時まで、苦難が続く。
国が始まって以来、
かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時には救われるであろう。
お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから
目覚める。……
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。」
(ダニエル書12:1〜3)

 ダニエル書というのは、黙示文学と言われ、終末(世の終り)についての幻を多く記した書物です。紀元前6世紀のユダヤの捕囚の民であったダニエルという人物に託して幻が語られるのですが、実際に書かれたのはもっと後の時代であると言われています。
 「星のように」というのは美しい表現であるだけではなく、事柄をよく言い当てています。太陽のようにまぶしい程に輝くのではないし、自分で輝くのでもない。太陽のようなイエス・キリストの光を映し出すのです。それぞれに、それぞれの大きさで照らし出しながら、証をしていく。そのようにしてイエス・キリストに従って生きる姿が人々の前にあって輝く星となるのです。
 パウロは、その後、自分の置かれた状況に鑑みて、殉教を意識しながら、こう語ります。
「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17〜18節)。
 フィリピの人に対してなした労苦が無駄ではなかった。この彼らの信仰が大きく育ったことに対する心からなる満足と喜びを言い表していると思います。自分の死が間近に迫っていることを意識し、覚悟しながら、「喜んでそれを受け入れよう。私はもうその覚悟ができている」というのです。

(6)「善き力に われかこまれ」

 ボンヘッファーが獄中で書いたものに「善き力にわれかこまれ」という詩がありますが、ボンヘッファーがこの詩を書いた時も死を意識し、深いところで死を覚悟していました。

「善き力に われかこまれ
 守りなぐさめられて
 世の悩み 共にわかち、
 新しい日を望もう。

 過ぎた日々の 悩み重く
 なお、のしかかるときも
 さわぎ立つ 心しずめ
 みむねにしたがいゆく

 たとい主から 差し出される
 杯は苦くても
 恐れず、感謝をこめて
 愛する手から受けよう。

 輝かせよ、主のともし火
 われらの闇の中に。
 望みを主の手にゆだね、
 来たるべき朝を待とう」
(『讃美歌21』469より)

(7)共に悩み、共に喜ぶ

 パウロはすでに1章において、生きることと死ぬことのジレンマを述べていました。ただし「生きるも地獄、死ぬも地獄」というジレンマではなく、反対に、死ぬことも望ましいが、生きることも御心ならば望ましいというジレンマでした(フィリピ1:20〜24)。
 ですから何が起ころうとも、自分はそれを喜んで受け入れる。だからあなたがたも、私と一緒に喜んで欲しいと語るのです。このところで、パウロと、遠く離れているフィリピの人たちが心を一つにしたことであろうと思います。
 今日の箇所、新共同訳聖書では「共に喜ぶ」というタイトルが付けられていますが、まさにこのことが教会として許されていることであり、教会として命じられていることではないでしょうか。ひとりひとりの苦難はすべての人の苦難であり、ひとりひとりの喜びはすべての人の喜びであります。パウロは、そのようにこの教会を育て、今遠く離れて牢屋の中にあっても、それを思い起こさせようとしているのです。
 このパウロの言葉は同じように、私たちの教会に向かっても告げられている言葉であります。ここにキリストが共におられることを信じ、恐れとおののきをもって、共に喜び、共に苦難を分かち合って進んでまいりましょう。


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