沈黙して待つ

〜ルカ福音書による説教(2)〜
エゼキエル書3章22〜27節
ルカ福音書1章5〜25
2007年9月16日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)生涯現役

 明日9月第三月曜日は、敬老の日であり、教会でも、本日、敬老のつどいを開くことになっております。今日の礼拝には、普段の礼拝に出られるのが難しい方々もこのつどいのためにご出席くださっている方もあろうかと思います。当教会では、77歳以上を敬老の対象としていますが、この案内を最初にもらう時は、複雑な心境になられる方々が多いようですね。一般的に申しまして、教会に来ておられる方々は、そうでない方々よりもお年のわりにお元気な方が多いのではないでしょうか。教会ではたくさんの働き人を必要としておりますし、まさに「生涯現役」のモデルのようなところであります。
 教会だけではなく、聖書の中にも生涯現役という人がたくさん登場します。その代表選手のような存在がアブラハムとサラ夫婦でした。アブラハムは75歳で、神様の召しを受けて、住み慣れたところを離れ、新しい出発をするのです。アブラハムとサラの間に約束の跡継ぎが与えられると告げられたのは、アブラハム99歳、サラ89歳の時でありました。そして100歳と90歳で、イサクが与えられるのです。

(2)老夫婦の物語

 私たちは、この9月よりルカによる福音書を読み始めたところですが、今日の箇所が本文の最初であります。ルカ福音書も、まさに生涯現役とも言えるような老夫婦の物語から始まるのです。

 「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(5〜7節)。

 ルカは歴史にこだわった人でした。ここで自分が語り始める物語が空想の話、つくり話ではなく、確かに歴史の中で起こったことであることを示そうとします。そのために、「ユダヤの王ヘロデの時代」と言い、そして「アビヤ組の祭司」という風にザカリアを特定し、妻エリサベトの方も「アロン家の娘」と紹介するのです。
 祭司の組織については、旧約聖書、歴代誌上24章に詳しく出ております。祭司全体が24の組に分けられ、アビヤ組というのはそのうちの一つです。1年間が太陰暦で48週ありましたので、年に2回、祭司の務めをする当番が、各組にまわってくるのですが、この時はちょうどザカリアが属するアビア組が当番になっていました。
 ザカリアは年をとっていましたが、現役で仕事をしていました。祭司と言う仕事には隠退がなかったのでしょう。
 二人は「神の前に正しい人」であったとあります。この正しさは、人の前の正しさではありません。私たち人間は、いつも人の目を気にし、人の前で自分を正しく見せようとします。そして自分を取り繕うとします。単に法律を守るというレベルであれば、努力すれば、ある程度できるかも知れません。しかしそれでもなかなか難しいものです。そうしたところから、しばしば自分が破綻してしまうこともありますし、逆に開き直って、法律に触れるぎりぎりのところで、悪いことをすることもあるでしょう。
 この夫婦には子どもがありませんでした。子どもは神様の祝福のしるしと考えられていましたから、この夫婦はこれまでどんな思いで過ごしてきたことでしょうか。「子どもが与えられないのは、天罰だ。何か彼らに非があるから、人の目の前で見えないところで何か悪いことをしているに違いない。」人からは、そう言われてきたかも知れません。あるいは何も言われなかったにしても、そういう視線を感じていたのではないでしょうか。そうした中、彼らは、何も言い返せない、恥ずかしい思いをしていたのではないかと、想像します。
 彼ら自身は、「人にはどう見られようとかまわない。ただ神の前では正しく生き抜こう。」そういう風に夫婦で考えていたのではないでしょうか。人とのつきあいにおいては、本音のところでは付き合えない、人知れず、その悩みを夫婦だけで分かち合って生きてきたのではないでしょうか。自分たちの気持ちは人には分かってもらえない。それを自分だけで、あるいは夫婦の間だけで閉じ込めている。
 しかしそうしたところから、主の物語が始まるのです。特にクリスマスの物語は始まっていくのです。このザカリアとエリサベトの存在は、まさしく苦しみと悩みに満ちて、主を待ち続けてきたイスラエルの民の歴史を象徴しているようです。そしてまさしくそれを示すように、ここではイスラエルの民全員を代表して、ザカリアが主の聖所に入って、香を焚くことになるのです。

(3)計画通りにいかない

 「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじをひいたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」(8〜10節)。

 祭司の務めの中で最も重要な務めが香を焚くということでした。祭司の各組には千人近い祭司がいたと言われます。くじでその中のたった一人を決めるのですが、先ほど申し上げましたように年に2回の当番です。ということは、10年間でもたった20人、50年間でも100人です。各組には千人近い祭司がいたのだとすれば、一生のうち、一度もこの務めに就くことがない祭司もたくさんいたということです。ザカリアにとっても、この時が初めてであったであろうことは、優に想像がつきます。年をとってから、初めてのことをするというのは、余程緊張することであったでしょう。
 私たちの主日礼拝の司会は、年に数回、長老さんに当番がまわってくるのですが、長老さんは大変緊張するとおっしゃいます。この時のザカリアの緊張は、それの比ではなかったでしょう。もしもしくじったら、どうしよう。何か手順を間違えたらどうしよう。とにかく教わったマニュアルどおり、一刻も早く、この大事な務めが終わるように。何事もなく無事に終わるように。早くここから解放されるように。そういう思いで、務めに当たっていたのではないでしょうか。しかし彼の務めは計画通りには行きません。何事もなく無事に終わることができないのです。彼の務めを遮る者がありました。何とそれが天使であったのです。
「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」(11節)。「何でよりによって、こんな時に。何でよりによって、自分の時に、こんなことが起きるのか。天使か何か知らないけれども、いい迷惑です」と思ったのではないでしょうか。

(4)天使の告げた「福音」

 しかしここで告げられた内容は、ザカリアにとって喜ばしいこと、彼の長年の願いであり、しかしそれはもうかなえられない願いとして、完全にあきらめていたことでありました。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(12〜14節)。
 ここで預言された人こそ、後に洗礼者ヨハネと呼ばれる人でした。洗礼者ヨハネについては、今日は詳しく述べることはできません。今日は、ザカリアとエリサベトの姿に、集中したいと思います。ザカリアはその洗礼者ヨハネの父、エリサベトはその母となるのです。ザカリアは、もうびっくりしました。しかし素直に喜ぶよりも、その言葉を信じることはできませんでした。
「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」(18節)。「もう老人です。妻も老人です。老人にはもう望みがありません。老人をからかうのはやめてください。あなたは出てくるのが遅すぎたではありませんか」という思いでしょう。

(5)予定を引き伸ばされる神

 しかしながら、神様にとって遅すぎるということはありません。主にとって不可能なことはない。それが今日、私たちに与えられた力強いメッセージであります。私たち、人間の目には遅すぎるように見えることも、神様にとっては、それがふさわしい時であることもあるのです。
 先ほど名前を挙げましたアブラハム、サラにとっても、そうでありました。ありえないことが起こる。彼らの場合は、「老人である自分たちに子どもができる」というお告げを笑いました。楽しい笑いではありません。心の中で、せせら笑ったのです。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」(創世記18:13〜14)。
 ただ神様は、予定を引き伸ばされることがあります。それは、そこで実現したことが人間の可能性によってではなく、神の可能性によってであることを知らせるためであります。人間の思いによってではなく、神様の思いがそこで実現するということがわかるためであります。そのことは年を取った人に限らないことでありましょう。若い人にも起こりえます。大学受験において、「もう少し早く、神様が助けてくださればよかったのに。」そう思うこともあるでしょう。司法試験やその他のさまざまな試験についても、「どうしてもっと早く」という風に、思うこともあるかも知れません。
 しかしそれは神様が、その願いを聞いておられないということではないのです。神様は確かに聞いておられる。ただしその願いについて、いつ、どのように答えるかは、神様の自由であります。私たちが願っている通りに、願っている時にかなえられるとは限らないのです。

(6)沈黙を強いられる

 そこでザカリアの問いに対して、天使はこう答えます。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」(19節)。「喜ばしい知らせ」、つまり「福音」を告げるために来たというのです。しかし、それがあまりにも大きなものだから、あまりにも自分の生活を覆すものだから、その前で戸惑い、それを受け入れるのに躊躇するのです。
「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が繰れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)。
 私たちは沈黙を強いられることがあります。沈黙して待つことを強いられることがあります。この時、ザカリアは二度沈黙を強いられたということができるのではないでしょうか。一つ目は、「子どもが与えられない。正しく生きているつもりなのに、どうしてなのか」という心理的沈黙です。人からは、何かきっと悪いことをしているのだろうという目で見られる。そういう人の視線の前で、自分は何も言うことができない。ただ黙っているだけ。彼のこれまでの人生は、そうした中で沈黙を強いられた人生ではなかったでしょうか。ザカリアもひたすら祈っていたことでしょう。若い頃の祈りは、「どうか子供を授けてください」という祈りであったかも知れません。後年の祈りは、「どうしてなのですか」という祈りであったのではないでしょうか。沈黙のうちに祈ったのです。しかし彼の願いは、実は聞き入れられていたのです。
 二度目の沈黙は、実際的な沈黙です。口が利けなくなった。この二つの沈黙は、少し種類が違いますが、私たちは沈黙して待つことの中に、さまざまな恵みがあることを知るのではないのではないでしょうか。人と分かち合えない中で、神様だけはすべてを分かっていてくださる。そこで祈りを強くすることもあるでしょう。実際に沈黙を強いられる中で、改めて聞くことを学ぶ。自分が語るよりも人が語ることを聞き、そして何よりも神様が語られるのを聞くそこで、恵みを味わうこともあるのではないでしょうか。
 この時、ザカリアはエリサベトと話をすることはできませんでした。この夫婦の沈黙の5ヶ月はどのようなものであったでしょうか。私は、必ずしもつらいだけ、不自由なだけのものではなかったのではないかと想像するのです。

(7)新しく語り始めるため

 沈黙は一つには聞くためですが、もう一つは新しく語り始めるためであります。
 預言者エゼキエルも、先ほどお読みいただきましたように、沈黙を強いられたことがありました。

「あなたは自分の家に入って閉じこもりなさい。人の子よ、あなたは縄をかけられ、縛られ、彼らの所へ出て行けないようにされる。また、わたしはあなたの舌を上顎につかせ、ものが言えないようにする。こうして彼らを責める者としてのあなたの役割は終わる。……しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く。」
(エゼキエル3:24〜27)

 ザカリアも、この後、沈黙から解かれた時に、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(ルカ1:68)という歌を歌い始めます。沈黙は新しい歌を歌い始めるための、恵みの準備の時であるという風にも言えるでしょう。私たちの人生において、誰とも分かち合えない悩みをもって、いわば心の中で沈黙を抱えていることもあるかも知れません。実際に、しゃべることができない、という沈黙を強いられることもあるかも知れません。しかしそれは恵みの時であり、神様をほめたたえる準備の時である。そのように受け止めて歩んでいきたいと思います。


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