不安と恐れを超えて

〜ルカ福音書による説教(3)〜
エレミヤ書23章3〜6節
ルカ福音書1章26〜38節
2007年11月25日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)田舎町ナザレ

 9月よりルカによる福音書を読み始め、しばらく中断していましたが、これからクリスマスに向けてルカによる福音書のクリスマス物語をご一緒に読んでいきたいと思います。今日、私たちに与えられた箇所は、天使ガブリエルがマリアのところに現れて、救い主イエス・キリストが、このマリアから生まれるということを告げる場面であります。受胎告知と呼ばれる物語です。

 「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」(26〜27節)。

 旧約聖書には何百と言う町の名前、国の名前が出てきますが、ナザレという地名は一度も出てきません。ヨハネ福音書の中には、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)という言葉がありますが、ナザレとはそれほど無名の田舎町、全く顧みられない場所でありました。
 もしも救い主メシアが現れるとすれば、それはエルサレムであろうと誰しもが考えたことでしょう。しかしそうではなかった。神様は名もない片田舎のナザレを心に留められました。価値も由緒もない、むしろ軽蔑の対象であったようなナザレから神様の救いの偉大な業が始められようとしている。このことは、まさに貧しい者、弱い者を、まず心に留められる神様にふさわしいことでありましょう。

(2)処女マリアからの誕生

 マリアは、天使の言葉を聞いた時、「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)と言いました。聖書は、マリアが処女であったことを暗示していますが、それはマリアの清さを語るためではありません。聖書は、結婚した女性よりも処女の方が清いとか、性的な関係が悪いものだとかいう見方をしません。ですから「穢れを知らぬマリア」とかいう表現は、私にはどうも男性中心の価値観が反映されているように思えてなりません。
 マリアは、この後、すぐにヨセフと結婚をし、子どもをたくさん産みます。マルコ福音書には、こういう言葉があります。
 「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(マルコ6:3)。
 「兄弟」というのは、いとこだという解釈もありますが、普通に読めば、主イエスの弟たちでしょう。「姉妹たち」の方も複数形になっていますので、少なくとも合計6人の弟と妹がいたとことになります。
 ここでのマリアは、子育てに追われる田舎のおかみさん、というイメージです。イエス・キリストが悪霊を追い出したりすると、気が狂ったかと思って止めに入ろうとするマリア。カナの結婚式の時には、息子イエスに「何とかしてください」と頼むマリア。それはどこにでもいそうな女性の姿です。「罪も穢れもないという女」として、マリアを特別扱いするのは、むしろ後の教会において作り上げられていったイメージではないでしょうか。
 そして特別な女性から救い主が生まれたということよりも、むしろどこにでもいるような普通の女性、選ばれる価値のないような女性が選ばれているということにこそ、聖書ならではの福音があるように、私は思います。
 処女マリアから生まれたということは、繰り返しますが、マリアの清さを表しているのではなく、神様の介入によってこの出来事は起きたということを表しているのでしょう。その意味では、赤ちゃんが生まれるはずがない年老いたエリサベトから洗礼者ヨハネが生まれたというのと同様であります。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない」(36〜37節)。

(3)『イエスの庶子性』

 私はアメリカに留学中、ちょうどその頃出版されたショッキングな神学書を読みました。それは ジェイン・シェイベルク(Jane Schaberg)という人の"Illegitimacy of Jesus"(1990)という本です。難しい題名ですが、直訳すれば、『イエスの庶子性』となるでしょうか。もっと平たく言えば、「イエスが私生児として生まれたこと」というような意味です。そうしたことを歴史的に、論理的に詳述したフェミニズムの神学書でありました。もっともイエスが庶子(私生児)であるということは、昔からイエス・キリストの神性を否定する人たちによって、ずっと言われてきたことですが、シェイベルクのこの本は、そうしたこととは全くトーンが違います。その中に積極的な福音を読み取っているのです。イエス・キリストが庶子として生まれたこと、言い換えれば一人で子どもを産む決断をしなければならない女性のもとから救い主が生まれたことにこそ、メッセージがあるというのです。そのことは、「マリアが聖霊によって身ごもった」ということを妨げるものではないでしょう。
 今日、一人で子どもを産む決断をしなければならない女性、いわゆるシングルマザーはたくさんいます。彼女たちの多くは差別され、経済的にも厳しい状況にあります。それと同じところに、神の子は宿ったのだということなのです。激しい賛否両論がありましたが、私は、そうした弱いところ、日の目を見ないところ、誰もがまさかと思うところで神様の歴史が始まっているというメッセージには、心を打たれました。

(4)「ダビデの子」かつ「神の子」

 天使は、マリアにこう言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。マリアは、この言葉に戸惑います。「主があなたと共におられる」という言葉は、一般的なあいさつでもありましたが、ここではもっと深い意味が込められていました。
 イザヤ書7章14節に、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とあります。インマヌエルというのは、「神が私たちと共におられる」という意味ですが、まさにその預言が、ここでマリアを通して、成就しようとしている。「あなたはそのために特別に選ばれた器ですよ」ということであります。
 マリアにはこの挨拶が何を意味するのか、わかりませんでした。それはそうでしょう。彼女は恐れと不安に包まれ、考え込んでしまいました。胸騒ぎがしたことでしょう。天使は、続きを語ります。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」(31〜32節)。

 続くガブリエルの言葉は、イエス・キリストがどういう存在であるかを、二つの面から語っています。第一は「ダビデの子」であるということです。「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(32〜33節)。
 主イエスはダビデの王座を継承すべき、ユダヤ的な伝統におけるメシアであるということです。イエス・キリストの誕生は、旧約聖書以来待ち望まれていた救い主の到来であったのです。先ほど読んでいただいたエレミヤ書にもこう記されていました。

「見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え、
この国に正義と恵みの業を行なう。
彼の代にユダは救われ、
イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」
(エレミヤ23:5〜6)。

 ダビデ王は過去の人でありましたが、もう一度、あのダビデ王と同じような優れた支配者を、神様が遣わしてくださる。それによって、ユダ、そしてイスラエルは救われる。エレミヤだけではなく、イザヤや他の預言者を通しても語られていました。主イエスの誕生は、その成就なのです。
しかし天使の言葉は、同時にそれを超えたことを告げています。
 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。
 その方は、単にイスラエル民族のメシア、救い主に留まらない。「ダビデの子」でありつつ、ダビデの子を超えたお方、「神の子」である。これがイエス・キリストの二つ目の肩書きであります。

(5)マリアの信仰

 マリアには、それを聞いてもなお、「一体何のことなのか。自分の身に何が起ころうとしているのか」、悟ることはできなかったのでありましょう。マリアの不安と恐れは、この言葉を聞いて、解決したというわけではありません。いや不安と恐れはさらに大きくなったのではないでしょうか。
 一つは、「そんなことはあるはずがない」という疑い、もう一つは、「どうして自分がそんなことを担いうるのか」という恐れです。しかしマリアは、どうしてよいかわからないまま、次の天使の言葉を聞くのです。
 「神にできないことは何一つない」(37節)。
 私たち人間は、さまざまな歴史的経験や知識、あるいは科学的理論を積み重ねて、その上で可能か不可能かを判断するものですが、この言葉はそれを超えています。神が一体どういうお方であるかということから判断する。そうした経験や知識を超えたお方に自分を賭けていくのです。
 マリアは、他の人と変わらない普通の女性、しかもこの時は若い、若い女性でありましたが、このことを受け入れる信仰を持っていました。
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。なんと言うすばらしい信仰でありましょうか。「はしため」というのは、「しもべ」の女性形です。

(6)一人で決断して受け入れた

 マリアの信仰もさることながら、神様が大きな救いの計画を、一人の若い女性に、(天使を通して)直接、告げられたということも、すごいことではないでしょうか。大事なことは男が担うというのが常識でありました。マタイ福音書では、主の天使は、同じことを夫になるヨセフに対して、告げています。しかしルカでは、マリアに直接打ち明け、マリアもそれを自分の決断で受け入れていくのです。
 普通は、女性は未成年であれば、父親の許可がなければ何事も決められないし、結婚した妻であれば、夫に相談しなければなりませんでした。しかし幸か不幸かマリアには相談する時間もありません。「そんなこと彼が知ったら、一体どうなるでしょうか」という思いであったかも知れません。女性の存在価値というのが、ただ男に従属し、家のために子どもを産みさえすればよいという時代です。(現代においてさえも、厚生労働大臣の口から、「女は子供を産む機械」という発言が飛び出す始末です。)
 しかしながら、その恐れと不安を超えて、彼女は静かに一人でそれを受け入れていくのです。彼女は、自分の責任で、主体的に、一人で子供を生む決断をしました。それは大変なことであったでしょう。「神にできないことはない」という言葉を受け入れ、そこに自分を賭けていったのです。
 この信仰は、「男を知らない女が子どもを生む」という奇跡を信じるということに留まりません。女が一人で子どもを産むことは、その後もさまざまな困難を伴ってくるでしょう。しかし神様がこのことをなされるのであれば、そこから出てくるすべての問題も、神様が解決してくださる、という信仰であります。
 信仰と言うのは、最終的にはこの時のマリアのように、自分一人で決断して受け入れていくものです。夫が信じているからとか、親がクリスチャンだからというわけにはいかない。それらはあくまで道備えです。伏線であります。自分のために神様が備えられた恵みの計画ではありますけれども、最後は自分で決断して受け入れていかなければならないのです。

(7)しもべ、はしためを用いる神

 ここでもうひとつ大事なことは、神様はその計画を成就するために、しもべ、はしためを必要とされるということです。ザカリアの職務を妨害して入ってきたように、神様はこの時も、マリアの将来の夢、生活を妨害して介入してこられました。
 しかしそのように自分の計画を中断されながらも、神様の全く新しい計画に加わっていく時、そこに真の喜びがあることに気付くのではないでしょうか。不安と恐れは喜びに変えられていくのです。神様が私たちを必要とされるということは、実は恵みの現われであると思います。
 私たちの人生には、想定外のことが時々、起こるものです。そこで私たちは、恐れと不安に包まれます。しかしそのことにうろたえず、おじけず、おびえず、この時のマリアのように、しっかりと神様の御声に聴こうとする姿勢、そして受け入れていく信仰の強さをもちたいと思います。
 またこの出来事は、神様が私たちの歴史に介入してこられたという決定的瞬間について語っているということを忘れてはならないでしょう。主イエスが生まれてきてくださるということは、私たちの日常生活の中に、深く神様がくい込んでくださるということであります。そのことを感謝し、アドベント、クリスマスへと進んでまいりましょう。


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