なんという恵み

〜ルカ福音書による説教(4)〜
詩編133編1〜3節
ルカによる福音書1章39〜46
2007年12月2日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)『讃美歌21』162番

 本日からクリスマスを待ち望む季節、アドベントが始まりました。講壇のキャンドルにも火が一つともりました。心を神様に向けて高くあげると同時に、心を静めて低くし、御言葉に聴き、意義深いクリスマスを迎えたいと思います。
 さて、今年のクリスマス、経堂緑岡教会では「なんという恵み、なんという喜び」というテーマを掲げました。これは、先ほど読んでいただいた詩編133編1節の言葉でありますが、私たちにとっては、むしろ『讃美歌21』162番の歌詞として馴染み深いものでありましょう。
 私たちは、前年度と今年度は続けて「神の家族」という年間標語を掲げております。前年度は年間聖句の言葉として、この詩編133編を選びました。そして昨年より、礼拝の最初でしばしば、この162番を歌ってまいりました。この讃美歌は、聖書の言葉を新共同訳の言葉のままで歌えるようになっている珍しい讃美歌です。塩田泉さんというカトリックの神父が作詞作曲されたものですが、新共同訳を知っている日本人だからこそできたことであります。そしてカトリックとプロテスタントが始めて共同で訳した聖書の言葉に、カトリックの神父がメロディーをつけ、それをプロテスタント教会の私たちの礼拝で歌うということそのものが、まさにこの歌の心をよく表していると思います。
 ただ残念なことは、この歌詞が聖書の言葉をそのまま使っているがゆえに、逆に「兄弟」という、いわば Exclusive (排他的)な言葉が残ってしまったことであります。女性を排除しているかに聞こえかねません。
 いろんな工夫を考えてはみました。例えば「兄弟姉妹」と書いて、その全体に「きょうだい」とルビをふったり、漢字を用いないで、ひらがなで「きょうだい」と書いたりする方法。あるいは、「見よ、兄弟姉妹が共に座っている」と読み替えて歌うことも試みましたが、どうもうまくいきません。本来のこの歌の命である美しい流れが台無しになってしまいます。あるいは1回目を「兄弟」と歌って、2回目を「姉妹」という言葉で歌うことも試みましたが、「しーまい」となってしまって、どうもよろしくありません。ですから「この讃美歌は聖書の言葉をそのまま歌っている。この『兄弟』には『姉妹』も含まれている」ということで、ご理解いただければと思います。
 その点で161番は、「見よ、主の家族が共に集まる。なんと大きな御恵みよ。なんと大きな喜びよ」という風に、Inclusive (包括的)な言葉に置き換えられていますので、今年度は、この161番と162番を織り交ぜて歌うようにしています。
 ちなみに聖書でも、今は世界中で、包括的な言葉(Inclusive Language)による翻訳というのが主流になってきました。
 NRSV(New Revised Standard Version) という聖書は、包括的言葉で訳されている聖書ですが、この箇所において、文字通りには brothers(兄弟)という言葉を kindred(親類)という風に読み替えて訳しています。この詩編が書かれた当時の兄弟の交わりというのは、男性中心の交わりであったことは否めませんが、それでも「兄弟」が共に住むということは、実際には女性を含む「親類」が共に住むということであったからであります。

(2)兄弟姉妹間の争い

 兄弟というのは、親から独立した時から、共に住むことは非常に難しいものです。旧約聖書は、兄弟間の争いの記事に満ちあふれています。最初の人間「アダムとエバ」の話の直後、「カインとアベル」の話は最初の兄弟殺しの話です(創世記4章)。双子の兄弟「エサウとヤコブ」の物語も兄弟間の争いの話であります(創世記25章以下)。その後の「ヨセフの兄弟の話」も、兄弟争いが出発点であります(創世記37章以下)。
 そうした中にあって、「兄弟が共に住む」ということは、確かに「なんという恵み、なんという喜び」かと思います。「カインとアベル」の場合は殺人で終わってしまいましたが、「エサウとヤコブ」は叔父ラバンのもとでヤコブが苦労を重ねた後に、和解の再会をいたします。「ヨセフと他の11人」も、ヨセフがエジプトへ売り渡された後、また不思議な再会をし、最後は「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」ということが、神様の大きな計画のうちに、実現いたしました。
 兄弟間の争いについては、女性も例外ではないでしょう。「レアとラケル」は実の姉妹でありましたが、同時に恋のライバルであり、一夫多妻制度のもとで、共にヤコブの妻となりました(創世記29章以下)。いろいろと大変であったようです。正妻と女奴隷の争いとなりますと、もっとすさまじい。アブラハムの妻サラは、他の点においては、なかなか素晴らしい女性でありますが、女奴隷ハガルに対する憎しみというのは半端ではなかったようです。結局、アブラハムの子イシュマエルを産んだハガルを荒れ野へと追いやってしまいます。もちろん、それらはすべて一夫多妻制といういびつな制度の犠牲になった女性たちのやむにやまれぬ行動であったと見ることもできるでありましょう。
 しかし聖書の例は少ないにしても、姉妹同士の争い、嫁姑の争い、嫁同士の争いというのは兄弟同士と同じように日常茶飯事であると思います。
 新約聖書の中の「姉妹」としては、マルタとマリアがいます。家の手伝いをしないでイエス・キリストの話に聞き入っているマリアに対するマルタの苛立ちというのが出てまいります(ルカ10:38〜42)。しかしあの二人の場合には、大きな姉妹愛の中での小さなエピソードでありましょう。

(3)エリサベトとマリアの出会い

 新約聖書の女性たちの交わりの中でとりわけ心に残るのは、本日のエリサベトとマリアの出会いであります。
 マリアの「受胎告知」の箇所に、「あなたの親類エリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている」(36節)という言葉がありました。エリサベトはマリアの親類でありました。恐らく叔母さんでしょう。ここでは「兄弟」ではなく、「見よ、姉妹が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という情景であります。美しい絵になる情景が目に浮かびます。実際に多くの画家によって、絵に描かれてきました。
 マリアは天使が去った後、急いで親類のエリサベトを訪ねます。このエリサベトは、24節によれば、身ごもってから5ヶ月の間、家に引きこもって身を隠していました。その間、夫のザカリアも口が利けませんでした。この間、エリサベトの気持ちはどうであったでしょうか。必ずしも「大喜び」ではなかったであろうと思います。
 「今頃、赤ちゃんが与えられても、遅すぎる」という思いではなかったでしょうか。「これから自分は一体何年生きられるか分からない。夫のザカリアも年をとっている。二人が死んでしまったら、この子は一体どうなるのか」という思いもよぎったでしょう。「年老いた自分が妊娠をしているということで、一体、世間の人はどう見るだろうか」という思いもあったかも知れません。恐らくこの5ヶ月というのは、それを喜びの現実、恵みの現実として受け止めるのに必要であった期間であったのでしょう。その間、夫のザカリアも沈黙をもって、妻に寄り添いました。その末に次の言葉があるのです。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(25節)。

(4)出会いによって知った神の恵み

 それから1ヶ月が経って、若い親類マリアが自分を訪ねてくるのです。そのようにして、エリサベトにはマリアの話を聞く用意ができていました。マリアが来ることは、恐らくエリサベトに対しても知らされていたのではないでしょうか。次のエリサベトの言葉が、それを示しています。

「あなたは女の中で祝福されています。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(42〜45節)。

 他方、マリアにしても、自分の身に突然起こった一大事を受け止めてくれる姉妹が、神様によって備えられていたのです。マリアは天使のお告げを、一人で静かに受け入れました。
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。彼女は婚約者のヨセフに早く打ち明けたかったことであろうと思いますが、まずエリサベトのもとへ行くのです。「彼女なら今、自分が置かれている状況をわかってくれるに違いない。女同士、そして同じ経験をしたもの同士として受け止めてくれる。そして先輩の女性として最もふさわしいアドバイスをくれるだろう。」

(5)シスターフッド

 一色義子先生は、ご著書『水がめを置いて』の最後の章において、このエリサベトとマリアの出会いと交わりを取り上げておられます。あの本のクライマックスとでも呼べる大事な章であります。そしてそのエリサベトとマリアの交わりを、最も適切にシスターフッドと呼んでおられます。
 「『親族』とは言っていますが、肉親上の姉妹ではない、違う世代の二人の女性の敬愛と、深く信頼しあう姿を学ぶことのできる物語なのです。私はここにシスターフッド(Sisterhood)の原型を見る想いがします」(234頁)。
 シスターフッドというのは訳しにくい言葉です。姉妹性、姉妹間の交わりという風に訳せるかも知れませんが、あまりぴんと来ません。案外、姉妹愛としてしまった方がいいかも知れません。
 「ここにシスターフッドをみるのは、この女性たちが、旧約聖書の多くの女性のように、一人の男性の二人の妻という関係ではなく、全く自由な立場で出会っているからです。男性とか結婚とか家庭とかが女性をとりまく絶対的な場として、どんな時にも既往の枠組みであった時代にありながら、この二人の女性の物語の扱い方は、二人だけの出会いをもって記されています」(240頁)。
 この二人の出会いは、結果的には「なんという恵み、なんという喜び」ということでありますが、二人の身に起こったことは、先ほどエリサベトのことでも申し上げた通り、単純に「恵み」とは言いがたいことであったことを忘れてはならないでしょう。
 マリアの場合は、エリサベトの場合よりも深刻であります。年端も行かない若い少女が、婚約者によらないで妊娠してしまう。ユダヤ人社会の厳しい道徳、律法のもとでは、殺されるかもしれない。しかしお互いに励ましあうことの中で、それが乗り越えられていくのです。それぞれ子どもを産むにはふさわしくない環境でありながら、お互いに子どもを産む決断をしていくのです。そういう信仰によって結び合わされた交わりがあってこそ、「なんという恵み、なんという喜び」と言えるのです。

(6)しるし

 さてエリサベトの夫ザカリアは、子どもが与えられると告げられた時、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」(18節)と言って、「しるし」を求めました。ザカリアに与えられたしるしとは、「口が利けなくなる」という「恵みの罰」のようなしるしでありました。
 一方、マリアの方は何もしるしを求めていません。「お言葉どおりこの身になりますように」と、そのまま受け入れていった。ところがこのマリアに対しては、求めずしてしるしが与えられるのです。「エリサベトを訪ねてご覧。それが本当だとわかるから。」そのように天使は語るのです。
 信仰というのはそういう面があるのではないかと思います。つまりしるしを求めて、それがあったら信じよう、というところには必ずしもしるしは与えられない。イエス・キリストも、「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(ルカ11:29)と言われました。
 しかし神様の言葉を信じて歩む中で、むこうからしるしを与えてくださるということがしばしばあります。「やっぱり神様の言うとおりだったのだ。」後になって、そのことがわかるのです。

(7)約束、希望

 また二人の胎内の赤ちゃんは、約束、希望ということを思い起こさせてくれます。約束というのは将来に属することです。しかし約束が与えられるということはすでに何かを得ているということです。将来に、こうする希望がある、ということは、すでにその萌芽となる何かが存在するということです。妊娠しているという状態は、将来に実現する事柄がすでに始まっているということ、まだ目に見えないけれども、確かにすでに存在していることでしょう。しかもこの二人の女性は、それぞれが約束、希望の萌芽を内側にもっていて、それでもって結ばれている。まさしくこれは、信仰者の姿であり、教会の姿であると思います。
 エリサベトはこう言っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。ここに教会の姿があり、シスターフッドの姿があります。教会には、女性も男性もいますが、そこには、神様によって召し集められ、約束によって結び合わされた交わりがある。そのことによって、私たちは心を一つにしている。同じところで、主を見上げて、主からいただいた約束を内に秘めて、希望を内側に携えて、共に歩んでまいりましょう。


※(5)〜(7)の説教は、2008年のアドベントの頃になされます。


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