あがめます主を、わが魂

 〜ルカ福音書による説教(5)〜
 イザヤ書11章1〜10節
 ルカ福音書1章46〜56節
 2008年12月21日
       牧師  松本 敏之


(1)4つの賛歌の第1番目

 クリスマス、おめでとうございます。今年、私たちは「もろびとこぞりて」というクリスマス標語を掲げて、この季節を歩んできました。もちろん、これは有名なクリスマスの賛美歌の題名であります。クリスマスと言えば、賛美歌が切り離せないものでありますが、そのほとんどの題材を提供しているのは、ルカ福音書であると言ってもいいでありましょう。ちなみに『讃美歌21』には、教会暦・クリスマスという分類の曲が、アドベントや公現というのを除いて29曲ありますが(245〜273番)、そのうち23曲の参照聖書箇所として、ルカ福音書が掲げられています。私たちが思い描くクリスマスの情景の多くは、ルカ福音書によっていると言えるでしょう。ルカ福音書のクリスマス物語は絵画的であると同時に、音楽的でもあります。ルカ福音書には、4つの賛歌が記されていますが、今日はその中のひとつ、「マリアの賛歌」と呼ばれるものを読んでいただきました。
 この歌はラテン語訳聖書の冒頭の言葉をとって、マグニフィカート(あるいはマニフィカート)と呼ばれます。そしてこの部分をテキストにして、昔から歌として歌われてまいりました。グレゴリオ聖歌の中にもありますし、その後もモンテヴェルディやJ・S・バッハを初め、いろんな作曲家が、このマリアの賛歌(マニフィカート)に曲をつけております。皆さんの中にもそれらをお聴きになったことのある方は多いでしょうし、あるいは歌われたことのある方もあるかも知れません。ちなみに有名な賛美歌175番の「わが心はあまつ神を、尊み、わがたましい、救い主を、ほめまつりて喜ぶ」という曲も、このマリアの賛歌を歌ったものです。今日は、インドネシア民謡に載せて歌われる「あがめます主を、わが魂」(178番)という方を、説教の後で歌うことにしております。こういう歌詞です。

1 あがめます主を、わが魂。
たたえます主を、わが心は。
名も知れぬ娘 主はあえて選び、
み子の母として 用いられた。

2 求めます主は、弱い人を。
訪ねます主は、貧しい人。
つきぬ愛そそぎ 痛みをとりさり、
低きを高める ちからの主は。

3 うちくだきます、誇る人を。
うちやぶります、富める者を。
飢えと貧しさを 良いもので満たし、
われらに近づく、恵みの主は。

(2)エリサベト訪問

 さてこのマリアの賛歌は、マリアが親類のエリサベトを訪ねた時に歌った歌であると言われています。マリアは、天使ガブリエルから、自分が救い主となるイエスを生むことになると告げられ、同時に「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない」(ルカ1:36)と告げられました。それで急いでエリサベトに会いに行ったのでした。その時の喜びの歌であります。

(3)主を「大きくする」

 この歌は「わたしの魂は主をあがめ」(47節)と始まります。この「あがめる」という言葉は、「大きくする」という言葉です。先ほどから申し上げている「マグニフィカート」というのはラテン語で、「私は大きくする」という意味です。「マグニ」というのも「大きい」という意味で、「マグニチュード」という地震用語なども、この「マグニ」から来ています。
 つまり「あがめる」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもつと言っても、その信仰を自分の人生に役に立つように用いていることがあります。信仰を、自分を大きくするための道具にしてしまったり、自分の人生に彩りを添える飾りにしてしまったりすることがあります。信仰もあるにこしたことはないけれども、なかったらないで絶対に困るという程のものでもない。あくまで自分の人生の中心には自分がいる。神様は、自分の人生をより豊かにしてくれる存在です。でもそれは本当の信仰とは言えるでしょうか。神様を大きくする前に、自分がいるのです。
 礼拝をするということは、神様を大きくするということに他なりません。自分を小さくして、神様を大きくするのです。私たちは洗礼を受ける時には、誰しも、そうした気持ちになります。「神様、私の人生の導き手となってください。私の人生の中心にいてください。」ところが、いつしかそうした気持ちも薄れて、別に礼拝をしなくても平気になってしまうことがあります。神様が小さくなってしまうのです。自分の方が大きくなってしまう。そうした中、私たちは、いつも意識的に、神様を礼拝して、神様を大きくするのです。
マリアの場合には、恐らくそんなことを意識もしないで、自然に心が動いて、神様をあがめ、神様をほめたたえたのでありましょう。

(4)小さく、弱い者を顧みられた

 その次に、心に留めたいことは、マリアがその理由として掲げていることです。マリアは「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」と歌います。
 その後のキリスト教会、特にカトリック教会では、マリアを大きくしてきたかも知れません。マリアは、救い主の母として、大きな存在にしてくださったから、神様をあがめたのではありませんでした。小さな取るに足らない存在であるにもかかわらず、神様は心にかけてくださったからであります。
 宗教改革者ルターは、マグニフィカートについての、1冊の本を書いています。新書本1冊程度のものですが、それだけで1冊の本になっているということからすれば、随分、詳しい注解です。ルターは、このマグニフィカートの解釈にこだわったのでした。「身分の低い」と訳されている言葉は、ラテン語では、〈humilitas〉という言葉ですが、当時のカトリック教会では、この言葉の中に、マリアの謙遜を見、それをマリアの美徳としたのでした。それに対して、ルターは異議を唱え、むしろマリアの置かれた社会的状況、身分が低いということを指していると言いました。

「humilitasは、軽んぜられ、見捨てられた卑しい存在、あるいはそういう境遇以外の何ものでもない。それは貧しく、病める、飢えたる、渇ける、捕らわれた、苦しめる、死に瀕する人々である」(ルター『マグニフィカート』内海季秋訳、聖文舎新書版、p.39)。

そういう存在に、神は目を留めてくださったということにメッセージがあるのです。

(5)くつがえしが起きる

 神が取るに足りないような存在、身分の低い存在に目をかけられた、というのはルカ福音書のその後の大きなテーマになっていきます。聖書の神は貧しい人の神であるということ、困難の中にある者の神であるということ、苦しみの底に沈んでいる者の神であるということです。そういう低いところに降られて共に歩み、そこから本当の意味での高いところに引き上げられるのです。私たちは、そのような神のわざによって、心も高くあげられるのです。それが、ルカ福音書の序曲のように、このマリアの賛歌の中に、すでにあらわれていると思います。
 このルカ福音書のメッセージは、その次の言葉で、よりはっきりと示されます。

「主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く引き上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます」
(51〜53節)。

 これらの言葉は、何だかクリスマスにふさわしくない不穏なことが記されているように思えます。ある人は、これは革命の歌だと言いました。
 私たちはこういう言葉を聞くと、何か不安な気持ちにさせられます。耳障りもよくないので、しばしば読みすごそうとしますが、それは許されないでしょう。かと言って、あまりにも社会的次元で、例えば革命を支持する言葉として読むことも平面的であると思います。これは終末論的な言葉なのです。最後にイエス・キリストが来られる時に、どういうことが起きるかということです。そこでは、私たち人間の基準と価値観が根底から覆されるということを語っているのです。

(6)「変」

 毎年年末になりますと、日本漢字能力検定協会が、その年の世相を表す漢字を募集し、その集計結果を発表します。今年、選ばれた世相漢字は、「変」という漢字でした。
 11月初旬から12月初旬までの間、2008年を表す世相漢字「今年の漢字」を全国公募した結果、111,208通の応募があり、そのうち、「変」という漢字が、6,031票(全体の5%強の人)もあったそうです。
「変」という字には、いろんな意味があります。ポジティブな面とネガティブな面の両方をもっています。辞書には、(1)かわる。うつりかわる。かえる。「変化」「変更」「変遷」、(2)ふつうではない。「変則」「変体」「変哲」とあります。応募した人たちは、それぞれいろんな意味を込めて、この漢字を選んだのでしょう。大きく5つの理由があると、記されていました。
一つ目は、日米の政治に変化があった年だということです。日本では昨年に引き続き短期間で首相が変わった。その一方で、アメリカでは「change(変革)」を訴えたオバマ氏が次期大統領に決定したことが大きな理由に挙げられています。
 二つ目は、世界的な金融情勢の変動です。アメリカのサブプライムローン問題、リーマンブラザーズの倒産を発端として、世界経済が大変動を起こし世界的金融恐慌が起きたことや、株価暴落や円高ドル安などの変動などに関する意見が多数あったそうです。また金融不安の影響による派遣切りや内定取り消しなどの雇用状況の変化なども理由に挙げられていました。
三番目は、生活に不安を覚えた一年であったということ。餃子、事故米、有害物質入り食品問題などが発覚し、食に対する安全性について意識が変わった。ガソリンの価格変動に一喜一憂し、物価が上昇して、生活が苦しい方向に変わった。秋葉原の無差別殺人のような凶悪で「変」な事件が頻繁に起こったことも、世間を騒然とさせた。そういうことなどが挙げられました。
四つ目の理由は、世界的な気候異変です。世界的な気候異変による地球温暖化問題の深刻化したこと。また日本の東北地方、中国四川省の地震をもたらした地殻変動やゲリラ豪雨にみられる天変地異に関心が集まりました。
 そして最後に五つ目ですが、「明るい未来に期待をこめて」という人もいたようです。平成生まれのスポーツ選手の活躍や日本人のノーベル賞受賞など、様々な分野で時代のいい変化を感じました。いい意味でも悪い意味でも変化の多い一年であったけれども、明るい未来に向かって、世の中や自分達が新たに変わっていく年であり、これからも変わっていきたいという気持ちを込める意見が目立ったそうです。
 ちなみに、台湾でも、今年から日本にならって、世相漢字を募集し、それを発表するようになったということですが、台湾の人たちが選んだ漢字は、「乱」でありました。この「乱」というのも、「変」に通じるものがあると思います。

(7)「わかちあい」への招き

 私は、この「マリアの賛歌」も「変化」という意味で、「変」について歌ったものであると思います。最後の時には、何かが起こる、神様が直接かかわられて変化させてくださる。マリアの賛歌に込められた意味は、いい意味で、最後には神様が主権を打ち立ててくださるということであろうと思います。台湾の「乱」もまた、マリアの賛歌に通じるものでありましょう。「くつがえし」が起きる、ということです。終末的逆転であります。そして神様のもとで新しい世界が始まるのです。貧しい側にいる人も、このマリアの言葉をただ「ざまあみろ」という思いで読んだのでは意味がないでしょう。やせがまんでもないでしょう。
神様はそこで何をなさろうとしておられるのか。私たちが今持っている価値観、今持っているもの、(まさに今年は、それが揺さぶられたわけですが、)それを神様が揺さぶりつつ、くつがえしつつ、それで捨て置くのではなく、もっとよいものを用意してくださっていることを信じたいと思います。
特に、今一番不安を感じている人たち、困っている人たちが、神様の光のもとで歩むことができるようになるということだと思います。ルカ福音書は、それを私たちに告げ、私たちに共に歩むようにと、チャレンジしているのではないでしょうか。私たちはクリスマスを祝う時にも、そうしたルカの視点を忘れないようにしたいと思います。大事なことは、私たちがこの言葉によって、もう一つの視点、今の状態を超えた視点を与えられて、悔い改めて、新しく生き始めることです。
 マリアも心からの喜びの心をもってこの歌を歌いました。
「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(48節)。
 今年のクリスマス、私たちもそのような神様のわざに巻き込まれて、まことの喜びへと導かれたいと思います。


HOMEへ戻る