神を賛美し始めた

〜ルカ福音書による説教(6)〜
詩編102編19〜23節
ルカによる福音書1章57〜66
2008年11月23日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)謝恩日

 本日は、日本のカレンダーでは、勤労感謝の日であります。これは、元来は新嘗祭(戦前の収穫感謝祭)に由来するものということですが、1948年、戦後国民の祝日が定められた際に「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨で定められました。アメリカ合衆国でもちょうどこの時期、11月第4木曜日がサンクスギビング・デーということで収穫感謝を祝い、国民の祝日となっています。私たちも今朝、教会学校では、この収穫感謝のお祝いをいたしました。日本キリスト教団では、これに加えて、11月第4日曜日を謝恩日と定めて、隠退教職の牧師先生方に感謝をする日となっています。本日の礼拝献金は、週報にも記されている通り、そのためにささげることになっていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(2)老夫婦への恵みの知らせ

 さて、私たちは昨年の秋から、ルカによる福音書を読み始めましたが、その中で1章の幾つかの箇所は、今年のアドベントの時期に読みたいと思って、残しておきました。アドベントは次週からですが、本日と12月の2回の日曜日に、これらの箇所を読むことにいたします。
 今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、新共同訳聖書では、「洗礼者ヨハネの誕生」という題が付けられています。これは物語としては、1章5〜25節に記されていたことの続きでありますので、簡単に振り返っておきましょう。
 洗礼者ヨハネの父親となるザカリアは、神に仕える祭司でありました。妻の名はエリサベトと言います。7節には、「彼らには、子供がなく、二人とも既に年を取っていた」とあります。生涯を神にささげてきた、ちょうど隠退教職夫妻のような感じでしょうか。しかしまだ隠退してはおらず、生涯現役であります。
 ザカリアはくじであたって、神殿の中の聖所で香をたくことになりました。一生に一度あるかないかの大切な務めです。そこに天使が現れて、子どものいないザカリア、エリサベト夫妻に、赤ちゃんが与えられると告げました。ヨハネがどういう人物になるかについても語られるのですが、それは、改めてお話いたしましょう。
 ザカリアは、その天使の言葉を信じられず、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻もまた年をとっています」(18節)と、しるしを求めました。天使は、こう答えます。
 「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」(19節)。
 天使は、まず自分が誰であるかを名乗りました。ガブリエルという天使は、旧約聖書にも登場いたします。聖書の世界では、ガブリエル、ラファエル、ミカエルというのが三大天使と言われますが、ガブリエルは、神様の言葉を伝える天使として知られています。たとえば、預言者ダニエルにあらわれて、救い主が到来するまでの70週について告げ知らせました(ダニエル9:21〜27)。そのガブリエルが、今ザカリアに現れて、「喜ばしい知らせ」を告げたのです。しかしガブリエルは、こう続けました。
 「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)。
 そして実際に、その瞬間から口が利けなくなりました。しかし、これはザカリアにとって、恵みの罰のようなものでした。「神様が確かにかかわっておられる」というしるしであったからです。
 外で待っていた人々は、ザカリアが随分時間がかかっていたので、心配していたことでしょう。そして出てきた後、彼が身振りで示すだけで、口が利けないままであったので、彼が聖所で幻を見たのだと悟ったということです。その後、妻エリサベトは身ごもって、5ヶ月の間、身を隠していました。そして、こう言いました。
 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(25節)。
 これは、主を賛美する言葉です。この後、ザカリアも、主を賛美することになりますが、エリサベトは、それに先立って神を賛美するのです。女性でありますから、自分に子どもが与えられた恵みを、夫よりも先に、その身でもって知ることができたということもあったでしょう。日が経つにつれて、ザカリアの心の内にも、何かしらの思いが募っていったことでしょう。

(3)恵みの成就

 今日お読みいただいた57節以下は、この物語を受けています。これらの言葉の成就、と言うことができるでしょう。
 「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて、喜び合った」(57節)。
 赤ちゃんは祝福であります。それは両親だけではなく、親戚一同、いやそれだけではなく、友人、近所の人たち、まわりのすべての人々に喜びをもたらす存在であります。とりわけ、このヨハネが与えられたことは人知を超えた奇跡でありましたので、その喜びはひとしおであったことでしょう。本当に満ち溢れているような情景が目に浮かびます。この点でヨハネの誕生は、イエス・キリストの誕生とは、少し異なっていました。

(4)エリサベトの勇気ある「いいえ」

 八日目になると、ユダヤ教の習慣として、割礼を施されることになります。親類や近所の人々が集まってきております。彼らは、誕生の祝いをし、割礼という儀式に加わるだけではなくて、その子の命名にも参加します。この時父親は口が利けませんでしたので、親戚の人々(男性)はいっそう、赤ちゃんの命名の責任を感じていたことでしょう。彼らは「そうだ。父親の名前をとって、ザカリアにしよう」と言っておりました。しかしその時、当時の慣習では考えられないようなことが起きました。母親であるエリサベトが口をはさんだのです。
 「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(60節)。
 彼女は、きっぱりとそう言いました。普通であれば、母親といえども、女性が口出しをする場面ではありませんでした。求められる答えはただひとつ。「はい。ありがとうございます」というのが常識でありました。しかし彼女は、まわりにいる男たちの決定に、正面から「いいえ」と言ったのです。これは、とても勇気のいることでした。非常識と思われたかも知れません。
 彼女が、どうして「名前はヨハネとしなければならない」と思ったのか、聖書は何も書いていません。もしかすると、口の利けないザカリアが筆談で、あらかじめ彼女に伝えていたのかも知れませんし、彼女にも天使から直接お告げがあったのかも知れません。いずれにしろ、彼女はきっぱりとそういうのです。自立した女性の姿がここにあります。
 親戚中が動揺します。エリサベトに自分たちの意見を否定されたことに憤慨した男性たちも多かったことでしょう。結局は父親であるザカリア自身に尋ねようということになります。すると、彼は字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。一同は驚きました。エリサベトと同じ名前を書いたからです。その瞬間に彼の「口が開き、舌がほどけて」、突然しゃべり出しました。

(5)主を賛美するために

 さてザカリアが口を開いて、最初に語ったのは、一体何であったでしょうか。彼は口が利けない間、沈黙を強いられました。話したくて、話したくて仕方がなかったでしょう。そしてその気持ちが充満して、それが解き放たれたのです。「やった。やっとしゃべれるようになったぞ」という喜びの叫びであったでしょうか。そうではありませんでした。
 「どうしてしゃべれなくなったのか。」今まで言いたくても言えなかった。それをまわりの人に詳しく事情説明をしたでしょうか。そういうことでもありませんでした。こう記されています。
 「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)
 沈黙を強いられている間、彼の中にじっと充満するように時を待っていたのは、神を賛美することでありました。ザカリアは口が利けるようになったとたん、神を賛美し始めたのです。これは興味深いことです。
 今日は旧約聖書、詩編102編19節以下をお読みいただきましたが、ここにこういう言葉があります。
 「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」(19節)。
 主を賛美すること。これが、私たちが創造された目的であるというのです。一人一人もそうですし、民(共同体)としてもそうであります。私たちは神様を賛美するために創られている。
創世記では、人間は神様にかたどって創られているとありますが(創世記1:27)、アウグスティヌスは、「人間は神様に向けて創られている」という言い方をしました。

「人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持にかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」
(『告白』第一巻第一章、山田晶訳)

 もちろん、神様を賛美しない生き方もあるでしょう。どちらを向いて生きるのも自由です。無理やり神様の方を向かされるわけではありません。しかしそれは、本来的ではないのです。本来的な生き方は、神様と向き合って、神様を賛美して生きること。そのために創られたからです。それ以外の方向を向いて生きる姿は、かみあわないようなパズルのようなものです。何かがたがたしてしっくり来ないのです。
 しかしがたがたしていたパズルがぴたっとはまる場所がある。それは神様の方に向いて生きる方向です。なぜかと言えば、そちらに向けて創られているからです。
「主を賛美するために民は、創造された。」
 私たちは、今ここで礼拝をしています。ここにいるのは、1週間のうちのほんの短い時間のことでしょう。しかしここにいて、この群れが神様を賛美している姿、これが私たちの本来的な姿なのです。ですから私たちは、ここで礼拝する時に落ち着くのです。ですからここで平安を得るのです。帰るべきところがここであるからです。教会が私たちの家だというのは、そういうことです。

(6)ヨハネとイエスの対比

 さて、今日の箇所はルカ福音書の中で、どういう意味をもっているでしょうか。最初に申しあげましたように、これはザカリアに与えられた天使ガブリエルの言葉の成就であるということができます。しかしそれでいて、これはまだ約束の時、待望の時なのです。本当の成就は、イエス・キリストの誕生まで待たなければなりません。ヨハネの誕生が預言されて、それが実現されて、そのヨハネの誕生そのものがイエス・キリストの誕生を待ち望む、ひとつの待望の時になっているのです。
 ルカは、ヨハネの誕生について多くの言葉を費やしています。その節数を数えてみると、実はイエス・キリストの誕生について記している節数よりも多いそうです。なぜそのように、ヨハネについて、それほど多く語ったのでしょうか。それは、この当時、イエス・キリストと並んで、ヨハネが大きな存在であったからでありましょう。そしてそのことを、聖書は高く評価しています。
 またヨハネの誕生についての記述と、イエス・キリストの誕生の記述は、さまざまな点で共通しています。
 まず@それぞれの誕生と喜びについて語ります(1章57〜58節と2章1〜20節)。次にA割礼と天使の告知に基づく命名と周囲の人々の反応が語られます(1章59〜66節と2章21〜28、33〜38節)。さらにB聖霊の働きについて触れます(1章67節と2章25〜27節)。そしてC賛歌です(ザカリアの賛歌とシメオンの賛歌。1章68〜79節と2章29〜32節)。最後にD幼児の成長についても共通しています(1章80節と2章40節)。
 そのようにあえて、ルカはヨハネの誕生とイエスの誕生を平行して、しかし対比的に描き分けるのです。
 ヨハネの誕生が天使の言葉の成就だということからすれば、ヨハネの誕生は、2章に置かれてもよさそうですが、これは1章に属しています。もちろん章の区分は、後世に作られたものですが、この章立ての区分は、理にかなっていると思います。ヨハネの誕生はまだ約束の時、待望の時であり、イエスの降誕とは一線を画すものであるからです。天使ガブリエルも、ヨハネを指してこう預言しました。
 「彼はエリヤの霊と力で主に先立っていく。父の心を子に向けさせ、さからう人に正しい人の分別をもたせて準備のできた民を主のために用意する」(17節)
 ヨハネは、エリヤの再来と呼ばれるようになります。そして父の心を子に向けさせる。それが、ヨハネの仕事として、生まれる前から備えられているということを、ガブリエルは告げているのです。私たちも、このヨハネと共にイエス・キリストの時を、待ち望みたいと思います。


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