ほめうた歌え、主なる神に

〜ルカ福音書による説教(7)〜
レビ記26章40〜45節
ルカによる福音書1章67〜80節
2008年12月7日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)ザカリアの賛歌

 講壇のキャンドルに二つ火が灯り、待降節第2主日を迎えました。経堂緑岡教会では、今年のクリスマスに、「もろびとこぞりて」というテーマを掲げました。ご承知のように、この言葉は有名なクリスマスの讃美歌の題名であります。私たちは、このクリスマス、この讃美歌にあるような思い、「もろびとこぞりて いざ主を迎えよ」という思いで、すべての人が集まって、主を讃美し、主を迎えたいと思います。
 今日、私たちに与えられました御言葉は、ルカによる福音書の1章67節以下の「ザカリアの賛歌」と呼ばれるものであります。ルカによる福音書の1章と2章、つまりアドベントとクリスマスの記事の中には、4つの賛歌が記されています。一つ目の賛歌は、1章47節から55節の「マリアの賛歌」(マグニフィカート)であります。これは再来週のクリスマス礼拝で読むことにしております。二つ目が、本日の「ザカリアの賛歌」であり、ちなみに三つ目は2章14節の「天使たちの賛歌」で、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和。御心に適う人にあれ」(グローリア・イン・エクセルシス・デオ)というもの。四つ目は、2章29節から32節で「シメオンの賛歌」と呼ばれます。年末によく読まれる御言葉であり、私たちも昨年の年末の礼拝で読みました。
 このザカリアの賛歌は、やはりラテン語訳聖書の最初の一語をとってベネディクトスと呼ばれます。ベネディクトゥスというのは、「ほめたたえられよ」「ほむべきかな」という意味です。日本語でも、新共同訳聖書では、「ほめたたえよ」という言葉が一番最初になりました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」というのは、Benedictus Dominus Deus Israel という言葉です。この賛歌は、ザカリアがエリサベトによって、後に洗礼者ヨハネを呼ばれるようになる子どもが与えられた時に、預言して歌ったものであります。

(2)イスラエルの神

 ザカリアの賛歌は、前半の68〜75節と、後半の76〜79節の二つの部分に分けられるでしょう。前半は、第1行に端的に表れていますように、神様への賛美、感謝の祈りであります。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(68節)。
ここで単に「主をほめたたえよ」(68節)というのではなく、「イスラエルの神である主をほめたたえよ」と言います。何か漠然とした神様、あるいは一般的な、観念的な神様ではなく、そういう歴史的背景をもった神様、具体的にイスラエルの歴史において、人間とかかわりをもってきた神様のことを指しているのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神様、サラ、リベカ、ハガル、ラケル、レアの神様。彼らと親しく交わられた神様であればこそ、今日も私たちの歴史にかかわり、私たちと親しく交わってくださる神様であることがわかるのではないでしょうか。
 「イスラエルの神である主」と言うと、私たちは何か現代のイスラエルという国家を思い浮かべてしまいますが、ここでいう「イスラエル」というのはそう言うことではありません。「イスラエル」というのは、もともとはアブラハムの孫であったヤコブの別名です(創世記32:29)。
 「イスラエル」とは、「神は支配される」という意味であります。やがてヤコブ、すなわちイスラエルには12人の息子が与えられるのですが、その子孫がイスラエルの民と呼ばれるようになるのです。イスラエル12部族には、ヤコブの息子たち12人の名前が付けられています。

(3)歴史を思い起こす

「主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い」(72〜73節)。

 ザカリアの賛歌のほとんどの言葉は、旧約聖書のどこかに出てくる言葉です。その意味で、新共同訳聖書の表題が、「ザカリアの預言」という風に、「預言」という言葉を使っていることもうなずけます。
 この箇所は、先ほど読んでいただいたレビ記26章40節以下と関係があります。

「たとえわたしが彼らに立ち向かい、敵の国に連れ去っても、もし、彼らのかたくなな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば、そのとき、わたしはヤコブとのわたしの契約、イサクとのわたしの契約、更にはアブラハムとのわたしの契約を思い起こし、かの土地を思い起こす」(レビ記26:41〜42)。

「アブラハムとの契約」ということで、さらにさかのぼれば、創世記15章5節の「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」という言葉をあげることができるでしょう。
「主はその民を訪れて解放し」(68節)と続きます。イスラエルの民と歴史的にかかわられた神様。その民を親しく訪れて、解放された。遠くからながめておられたわけではありません。近くに来られて、奴隷状態の中から解放してくださった。ここでは二つの解放が思い起こされます。一つは、エジプトの地からの解放です。そしてもう一つ忘れてはならないのが、バビロン捕囚からの解放であります。
 そうした過去において、自分たちの先祖を訪れて解放してくださった神様が、ザカリアの時代の人々をも解放してくださることを覚えて、ほめたたえているのです。ひいては、その方が現代の私たちをも訪れ、解放してくださる方であることを指し示していると思います。
 「われらのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(69節)。
「角」というのは、「強力な助け」ということです。詩編の中にも、「角はあげられる」という表現があるのですが(詩編75:11など)、それは「強められ、高められる」という意味です。つまり「ダビデの家から救い主が生まれる」というクリスマスの出来事を語っております。
 「昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに」(70節)。
 ずっと長い間、預言者たちが語ってきたこと、イスラエルの民が長い間待ち望んできたこと、それが今、実現した。もううれしくて、うれしくて仕方がないという気持ちがよく表れております。あの祭司の当番の時には、恐れて震えていたようなザカリアが、ここでは喜びがはちきれんばかりです。実際に息子が与えられることによって、神様は誠実なお方だ、そして不可能を可能に変えることのできるお方だと知ったからでしょう。

(4)敵とは?

 「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」(71節)。
 「敵」とは一体誰でしょうか。歴史的な意味では、イスラエルの民の前に立ちはだかったのは、エジプト人であり、ペリシテ人であり、アッシリア人であり、バビロニア人でありました。しかしそういう特定は私たちにはあまり意味がないでありましょう。むしろ社会の中において、強い力を持って、弱い立場の民族、人々を抑圧する人がいる。そこからの解放ということに、まず目を向けたいと思います。
 先程イスラエルと言えば、今日のイスラエルという国家を思い浮かべてしまうと申し上げましたが、そのイスラエル国家が「我らの敵」と言えば、パレスチナ(のハマス)ということになりそうです。しかし今日の力の関係、強い者と弱い者という構図から言えば、反対ではないかと思います。イスラエルが軍事力でペリシテ人の子孫であるパレスチナ人を蹂躙しているのです。
 さらに「我らの敵」ということで言えば、もっと広く、そうした社会的地平を超えたところも視野に入れておく必要があるでしょう。それは私たちを脅かすすべてのものです。それは死であり、病気であり、罪であり、貪欲です。これが、もっと手ごわい敵であるかも知れません。私たちはそうしたものに取り囲まれて、不安の中にあります。しかしこう続くのです。
 「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の前に清く正しく」(73b〜75節)。
 歴史的な過去を振り返ることから、現在のこと、将来のことへと、話が大きくなっていきます。
 「恐れなく仕える」。自分が向き合っている神様が本物であるということを悟った時に、「恐れとおののき」を覚えるものでありますが、その神様ご自身が「恐れるな」と言って近づいてくださる。この時も天使ガブリエルがザカリアに「恐れるな」と言って近づいてきました。まさにクリスマスのメッセージであります。そこで私たちは、びくびくしながらではなく、喜んで、心から、主に仕えることが許されるのです。

(5)洗礼者ヨハネの働き

 さて後半の76〜79節は、ザカリアの息子となる洗礼者ヨハネの働きについて語っています。
 「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」(76節)。
 洗礼者ヨハネ自身が「いと高き方」なのではありません。彼はあくまで預言者、その方について証をする者です。ある人は、洗礼者ヨハネは「指」だと言いました。しかしその指は、偉大な指であります。なぜ偉大なのかと言えば、イエス・キリスト
 預言者の中の預言者、旧約聖書の預言者の系譜に連なりながら、イエス・キリスト以前の最後にして、最大の預言者でありました。すでに、天使ガブリエルが「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(15〜16節)と告げていたとおりです。さらにこの賛歌においても、次のように語られます。
 「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを、知らせるからである」(76b〜77節)。
 この言葉は、マラキ書3章1節から来ているでしょう。
 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、かれが来る、と万軍の主は言われる」。

(6)暗闇に輝く光

 洗礼者ヨハネの働きについて述べた後、そのヨハネが指し示した方へと、再び話の焦点が戻っていきます。ヨハネの方を向いていた私たちが、そのヨハネの指に従って、すっと視点を移されるような感じがいたします。
 「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(78〜79節)。
 まさにこれは、イエス・キリストによって起こる出来事について語っています。
 私たちはクリスマスと言いますと、単純に明るく、楽しいお祭りだと考えがちですが、むしろクリスマスというのは、暗闇の中にある人を照らす、そういう喜びを告げるものであるということを、心に留めたいと思います。皆さんの中には、もしかすると、つらい思いをし、苦しい経験をして、とてもクリスマスをお祝いするような気持ちになれないという方もあるかも知れません。今年、大事な人を失った方もあるでしょう。しかしむしろそういう中でこそ、クリスマスのメッセージが届いて欲しいと思うのです。暗闇が濃ければ濃いほど、クリスマスの光は強く輝くからです。

(7)交差配列法

 最後にこのザカリアの賛歌の形式に少し触れておきましょう。この賛歌は、交錯配列法といって、前後で対称的な凝った技法で書かれています。最初に出てきた言葉がまた最後に出てくる。二番目に出てきた言葉が最後から二番目に出てくるという具合です。たとえば、68節に「主はその民を訪れて解放し」という言葉がありますが、その中の「訪れる」という言葉が、最後の78節に「主はわれらを訪れ」と出てきます。68節の「民」という言葉は、77節の「主の民に罪のゆるしを」と呼応しています。69節の「主はわれらのために救いの角を」「救い」という言葉は、77節に出てきます。70節の「預言者」という言葉は、70節と76節に出てきます。71節の「敵」「手」は、74節に出てきます。中ほど72節の「われらの父祖」は、次の73節で「われらの父アブラハム」として出てきます。対称的になっているのです。ルカの修辞法です。<BR>
この後で歌います『讃美歌21』の182番は、この「ザカリアの賛歌」による讃美歌であります。

1 ほめうた歌え、主なる神に。
主はその民を 顧みられ、
自由と平和 与えられる。
預言者たちの 告げたとおり。

2 「ダビデのすえの 恵みのみ子、
  今こそ来ます 救いの主は」。
  このおとずれを 告げる者は、
  先立ち進み 道を拓く。

3 暗闇と死の とらわれびと、
  憐れみの主の 光を見よ。
  平和の道に みちびきゆく
  救いの神を ほめたたえよ。

 私たちもザカリアと共に主をほめ歌いながら、クリスマスを待ち望みましょう。


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