イエスの受洗

〜ルカ福音書による説教(14)〜
イザヤ書42章1〜4節
ルカによる福音書3章21〜38節
2008年2月10日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)罪人のひとりに数えられた

 先週の水曜日から40日間の受難節に入りました。ちなみに受難節を40日間(日曜日を除く)と定めているのは、次回のテキストである荒れ野の誘惑と深い関係があります。本日のテキストは、その前のイエス・キリストが洗礼を受けられたという物語でありますが、これもよく考えてみるならば、今日という日、受難節の始まりにふさわしいテキストであります。
 ただルカはイエスの受洗について、他のマルコやマタイよりもきわめて短く、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という風にさらりと記しています。マルコやマタイと違って、「洗礼者ヨハネから」洗礼を受けられたということすら記しません。
 洗礼者ヨハネが民衆に呼びかけ、促していた洗礼というのは、「罪の赦しを得させるため」「悔い改めの洗礼」(3節)でありました。ですから、罪のない神の子イエス・キリストであれば、本来は受ける必要のないものでしょう。ちなみにマタイ福音書では、洗礼者ヨハネはそれを思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)と、問われました。それに対して、イエス・キリストは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)と答えておられます。
 しかしルカではそのようなやり取りもありません。それよりもルカは、神の子であるイエス・キリストが洗礼を受けられたという事実、しかも大勢の民衆と並んで、その一人として洗礼を受けられたという事実に、私たちの目を向けようとしているようです。ヨハネとのやり取りもなく、洗礼を授けている一方の主役のようなヨハネさえも背後に退き、ただただ民衆の一人として、群れの中で静かに洗礼を受けられるイエス・キリストの姿に光が当てられるのです。イエス・キリストは、ここで罪の悔い改めを必要とするような人間の一人として立たれたのです。
 イザヤ書53章には、「苦難の僕の歌」と呼ばれ歌がありますが、その終わりにはこう書かれています。
 「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者たちのために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53:12)。
大勢の罪人の群れの中で、その一人として洗礼を受けようとしておられるイエス・キリストは、今まさに、「罪人のひとりに数えられる」歩みの最初の一歩を踏み出そうとしておられると言えるでしょう。その道は、十字架の死へと続く道であります。だからこそ私は、この聖書の箇所こそ、受難節の最初の日曜日にふさわしいものだと思うのです。

(2)祈りに始まり、祈りに終わる

 ルカは、イエス・キリストの洗礼について簡潔に記しながら、一方で、他の福音書にはないことを書き加えました。それは、イエス・キリストが祈っておられたということであります。
 これも考えてみると不思議なことです。果たして神の子であるイエス・キリストに祈る必要があったのでしょうか。しかし祈りとは、ただ神様に願い事をするだけのことではなく、信仰生活の呼吸のようなものです。これから先、主イエスは大事な場面ではいつも祈りによって神様との交わりを確認されることになります。特に、ルカはそのようなイエス・キリストの姿を印象深く書き記すのです。
6章12節には、こう記されています。
 「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると、弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」。弟子選びに際しても、イエス・キリストは徹夜の祈りをなさったのです。もしかしたら、イスカリオテのユダが自分を裏切ることをすでにご承知であり、「本当にこの十二人でいいのでしょうか。それが御心なのでしょうか」と祈っておられたのかも知れません。
 9章28〜29節の山上の変貌の箇所も、「イエスは、ペトロ、ヨハネおよびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」と始まります。
 十字架にかかられる前夜の祈りはゲツセマネの祈りと呼ばれますが、その情景を、ルカは特に印象深く、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:44)と記しました。
 十字架の上でも祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(22:34)、「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」(22:46)。これがイエス・キリストの最期の言葉であります。
 そのような祈りに始まり、祈りに終わるメシアとしての歩みが、今、この洗礼によって始まろうとしているのです。
 私たちは祈る時に、「イエス・キリストの御名によって祈ります」と唱えますが、あれは単なるおまじないではありません。まさに私たちの祈りも、このイエス・キリストの祈りに支えられていることを確認し、このイエス・キリストの祈りによりすがり、その祈りに、私たちの祈りも加えていただくようにして、イエス・キリストの名前を口にするのです。

(3)天が開け、聖霊が降った

 さてイエス・キリストが洗礼をお受けになった時に三つのことが起きたと、ルカは記します。
一つ目は「天が開けた」ということであります。このことは、モーセが十戒をいただいた時の情景に通じるものでしょう。主が火の中を降ったてこられたとありました(出19:18)。また第三イザヤは、その時のことを思い起こし、こう祈りました。

「あなたの統治を受けられなくなってから、
あなたの御名で呼ばれなくなってから
わたしたちは久しい時を過ごしています。
どうか、天を裂いて降ってください。
御前に山々が揺れ動くように。」
(イザヤ63:19)

 この願いが今イエス・キリストの受洗によって聞き届けられた。それは、天を裂き、天と地を一つに結び合わせる出来事であったのです。
 二つ目は、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」ということです。「鳩」というのは、ノアが大洪水の後で箱舟の中から放たれ、オリーブを加えて帰ってきた鳥であります。神様の人間に対する和解のシンボル、平和のシンボルであるとされます。そのことがここでも意識されているのでしょうか。しかもルカは、「目に見える姿で」とリアルな言葉をもって記しています。ルカがやがて使徒言行録で記すことになるペンテコステ以前の、最初の聖霊降臨と言えるかも知れません。

(4)わたしの愛する子

 三つ目は、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえてきたということです。この言葉もやはり旧約聖書に通じています。

「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」
(詩編2:7〜9)

 この詩編は、イスラエルの王の即位式で用いられる歌でありました。王を通してそのような厳しい裁きが行なわれるということです。
 しかし実際のメシア、イエス・キリストは、どうであったでしょうか。確かに厳しい裁きはある。それをしっかり認識しながら、むしろそれを御自分の身に負わせる道を選ばれたメシアではなかったでしょうか。「麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカ3:17)権威と権能をもったお方が、その裁きを、罪のない御自分の身に当てられる道をとられたのであります。ヨハネは「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことができる」(ルカ3:8)と言いましたが、まさに石ころのような私たちを、アブラハムの子たちに造り変える道を切り開いてくださったのです。
 「わたしの愛する子」という言葉で思い起こすもう一つの言葉は、今日読んでいただきましたイザヤ書42章1節以下であります。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、
声を巷(ちまた)に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなった灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。」
(イザヤ42:1〜4)

 洗礼を受けられる姿を髣髴とさせる言葉ではないでしょうか。これは先ほど申し上げたイザヤ書53章の「苦難の僕の歌」につながる僕の歌でもあります。私は、何も語らず、罪人のひとりとして群れの中に並び、静かに洗礼を受けられるイエス・キリストの姿こそは、この僕の歌の成就であると思いました。

(5)系図の意味

 今日は、もうひとつ、「イエスの系図」と題された箇所を読んでいただきました。なかなか読みにくい、舌を噛みそうな名前が連なっています箇所です。(アミナダブという名前は、「南無阿弥陀仏」みたいですね)。
 この最初のところに「イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳であった」とあります。30歳というのは、恐らく、祭司が神に仕え始める年齢というのが30歳であったのと関係があるのでしょう(民数記4:3)。
 マタイ福音書冒頭にもイエス・キリストの系図がありますが、ルカの系図には幾つかの違いがあります。
 マタイでは、アブラハムから始めてくだっていくようにして書き記しました。ルカは逆に、「イエスはヨセフの子と思われていた」(23節)という言葉で始め、そこから遡るようにして書き記しています。
 マタイは、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビでの子であるということを告げていますが、ルカはそれを踏まえつつもそれを超えて、イエス・キリストが、アダムの子であること、そして神の子であることを告げています。つまり、イエス・キリストがイスラエルの待ち望まれた主であるだけではなくて、全人類の主であることを、示そうとしているのです。
 ここに77人の名前があります。後ろから行きますと、アダムからアブラハムまでが21人(3×7)、イサクからダビデまでが14人(2×7)、ナタムからシャルティエルまでが21人(3×7)、ゼルバベルからイエスまでが21人(3×7)であります。やはり7という数字に従って記しているのです。

(6)二つの断絶

 またこの系図には二つの断絶があります。一つはヨセフとイエス・キリストの間です。ずっとつながっているようであっても、大事なところで、「何だ。イエス・キリストはヨセフの子ではないのか」ということになってしまう。もう一つは、一番始まりです。アダムと神の間。ここにも断絶があります。
しかしそれが断絶であると同時に、連続なのです。非連続であると同時に、連続なのです。そのことはまさに、イエス・キリストというお方がどういうお方であるかということを指し示しているように思いました。まことの神の子であるお方が、まことの人の子としてお生まれになり、そのお方が、人の子の群れの中に、名前を書き連ねられている。
 この中の人々は、ほとんど名前以外は、もう何も分かりません。そのような人たちの名前の中に、イエス・キリストの名前が置かれている。しかしそのお方は神の子である。神にまで至る系図の一人である。そのイエス・キリストが神につながるものであるがゆえに、私たちもまた、そこにつながることが許されているのです。

(7)名前以外はわからない存在

 この系図の中のほとんどの人が一体どういう人であったのか全くわからないと言いましたが、それでも神様からイエス・キリストに至る系譜の中に置かれているのです。
 私たちもやがてこの世界を去って行きます。それから何十年かすると、遅くとも何百年かすると、私たちのうち、一体誰の名前がこの世界に残っているでしょうか。もしかすると名前位はお墓に残っているかも知れません。しかし名前以外の何もわからなくなってしまうような時がいつか来るでしょう。しかしそれと同じところにイエス・キリストは身を置かれ、その一人一人を受け止めてくださっているのです。それでよいと。
 そのことは私たちの人生、そしてこの歴史の中での、私たちの歩みが、イエス・キリストにつながる歩みとされる時に、神の前で意味のある歩みとされる。イエス・キリストは、そのためにこの世界に来られ、罪人のひとりとして数えられ、罪人のひとりとして十字架にかかり、死なれたのです。今、改めてそのことを思い起こし、感謝して、受難節の歩みを始めましょう。


HOMEへ戻る