何によって生きるか

〜ルカ福音書による説教(15)〜
詩編119編101〜107節
ルカによる福音書4章1〜4節
2008年2月24日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)"霊"によって引き回され

 受難節に入って3回目の日曜日であります。この受難節が日曜日を除く40日間と定められていますのは、イエス・キリストが、その宣教活動の始まりにあたって、荒れ野で40日40夜、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたということに由来しています。これから、その荒れ野の誘惑の記事を、3回にわたって読んでまいりましょう。
 「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(1〜2節)。
 なんとこの荒れ野の誘惑へとイエス・キリストが導かれ、引き回されたのは、"霊"によるものであったというのです。神様の"霊"がそれをさせた。言い換えますと、主イエスは必ず、この誘惑を受けなければならなかった。それも宣教の始めに、欠かすことのできないものとして備えられたということです。一体、どうしてでありましょうか。次のヘブライ人への手紙の言葉がヒントになるかも知れません。
 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。
 これは、私たちの受けるであろう試練と誘惑をイエス・キリストも経験されたということでしょう。神の子であれば、私たちの次元の低い悩み、悲しみなど関係がないだろうと思ってしまうかも知れませんが、そうではないのです。

(2)試練と誘惑

 ちなみに、ヘブライ人への手紙では「試練」となっていますが、「試練」と「誘惑」は、ヘブライ語では、実は同じ言葉なのです(ペイラモス)。「試練」と「誘惑」が同じなのかと、不思議に思う方もあるでしょう。ただ「主の祈り」に「われらを試みにあわせず」という言葉がありますが、あの「試み」という言葉は、まさにその両方のニュアンスをもっていると思います。「試みを受ける」というのは、試練とも、誘惑とも取れる。考えてみますと、同じ経験が試練にもなりうるし、誘惑にもなりうると言えるのではないでしょうか。あとで振り返って、それに打ち勝った時には、「試練だったのだ」となりますし、それに負けて人間がダメになってしまった時には、「誘惑だったのだ」となるのかも知れません。神様が試練としてお与えになっていることを、悪魔は横から誘惑として利用するということもあるでしょう。逆に、悪魔の誘惑を、神は試練として用いられたのかも知れません。いずれにしろイエス・キリストは、それを荒れ野で受けられたのです。
 私の好きな讃美歌の一つに、以前の『讃美歌』532番の「ひとたびは死にし身も」という讃美歌があります。2節にこういう歌詞があります。

「主の受けぬ試みも
主の知らぬ苦しみも
 うつし世にあらじかし
いずこにもみあと見ゆ」。

 「イエスさまの受けなかった試み、イエスさまの知らない苦しみ、それはこの世の中のどこにも存在しない、どこへ行ってもイエス様の通った跡がある」ということです。私たちは、自分が苦しい目にあう時、悲しい目にあう時、誰かから虐待される時、重い病気にかかる時、親しい家族を不条理な形で失う時、なぜ自分がこういう経験をしなければならないのかと問います。その問いに対する直接の答えはないのかも知れません。しかしひとつ言えることは、私だけが、と思っていたのが、実はイエス様もすでに経験なさっていたということです。それがこの歌の心です。
それは今のヘブライ人への手紙の言葉に通じるものであります。

(3)悪魔の恐ろしさ

 悪魔は、それが悪魔だとはわからないところが恐ろしいのではないのではないでしょうか。よく漫画にあるように、あるいはトランプのジョーカーのように、黒い衣装を着て、2本の牙があって、しっぽがはえて、いかにも「悪魔でございます」という顔をしていたら、私たちも警戒をします。しかしそうではない。ある時は、やさしいおじいさんのように、近づいて来る。「おなかが減っているんだろ。これを変えて食べたらどうだ。お前ならそれができるじゃないか」。またある時はうっとりする美女であることもあるでしょう(これはかなり悪魔的ですが)。一体どういう姿で現れるかわからない。変幻自在というところが、悪魔の悪魔たるゆえんではないでしょうか。「悪魔は名刺を渡さない」と言った人がいます。
 この時も、空腹どころか、もう餓死寸前のふらふらの状態のイエス・キリストのところに、悪魔はいかにも賢い助言者のように近づいてきたのでした。
 悪魔などというのは時代錯誤のように思う人もあるかも知れません。しかしそういう人であっても、あるいは神様を信じない人であっても、この世界には「悪魔の仕業」と呼ばざるを得ないような、何かしら強大な、しかも人格的な力が私たちを取り囲んでいることは認めざるを得ないのではないでしょうか。その力を決して侮ることはできません。

(4)ルワンダの大虐殺

 私たちの教会の秋の講演会でもご奉仕くださいましたフォトジャーナリストの桃井和馬さんが、先日(2月14日)、恵泉女学園中学校高等学校でお話をしてくださいました。桃井さんは世界140カ国以上まわり、この世の修羅場とも思えるような場所にもたくさん行かれたことのある方です。
 講演の後で、一人の生徒が「これまでで一番恐ろしかったことは何ですか」と質問をしたのですが、桃井さんは、「ルワンダの大虐殺のあとを訪ねた時です」とお答えになりました。
 ルワンダの大虐殺というのは、1994年、ルワンダ国内でフツ族の人々がツチ族の人々を、わずか数週間の間に、数十万人も殺した、20世紀最大の大量虐殺と言われる出来事であります。(私たちの教会のアルセンヌさんもその直後の時代に、隣国のコンゴ民主共和国で同様の経験をされましたので、私もある程度、調べたことがあります。)
 それは、政府の誰かがやったというのではありません。全く普通の人々が斧をもって次々と殺したのです。「ツチ族の人々が自分たちを殺そうとしている。やられる前にやってしまえ」ということがまことしやかにラジオから流れ、恐怖と(これまで)抑圧されてきたという思いが、人を大量虐殺へと追い込んで言った。それ程の大事件になることは、誰も予想できなかった。桃井さんは、「その後、フツ族の人々が入れられている刑務所を訪ねたけれども、別に悪魔的な人たちではない。とてもそういうことをするような人に思えない。普通の人々であった。その事実が恐ろしい」とおっしゃいました。
 普通の人が、何かあることになると、冷静な判断ができなくなってしまう。群集というのはそれほど恐ろしいものだということもできますが、ただ単に、「群集心理」ということでは説明がつかないことが起こる。「なぜあの人が。」何かにとりつかれたようにという言葉の通り、人が変わったようになってしまう。悪魔が働いたとしかいいようがない、なにがしかの力が、私たちの世界には働いていると思います。それは、教会の中でも起こりうることです。
 桃井さんは、戦争が起きる時というのはそういう状態ではないかと言われました。

(5)パンだけで生きるのではない

 イエス・キリストは四十日間、断食をされました。おなかがペコペコです。その終わりにあたって悪魔はこう言いました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。イエス・キリストであれば、確かにそれもできたでありましょう。洗礼者ヨハネは、「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(3:8)と言いましたが、その神様の力を受けた神の子であれば、石ころをパンに変える位、何でもなかったかと思います。お茶の子さいさい。
しかし悪魔の語りかけを、主イエスは、有名な言葉で退けられました。
 「人は『パンだけで生きるものではない』と書いてある」(3節)。
 ただしこれだけだと誤解されるかも知れません。先日も子ども祝福の祈りでこの言葉を出したら、即座にある子どもが「おかずも必要だ」と言っていました。「パンだけだと栄養が偏りますよ。おかずも食べなさい」と、お母さんに言われているのでしょうか。もちろんそういうことではありませんが、「人はパンだけで生きるものではない」と聴いた時に、私たちは、「でもパンなしでも生きられない」と思ってしまうのではないでしょうか。
 イエス・キリストが受けた最初の誘惑は「飢え」ということでありました。この時、イエス・キリストご自身が飢餓線上のすれすれのところにおられたことを忘れてはならないでしょう。
 この礼拝に出ている人の中で、私を含めて、今日明日、食べるものが無くて餓死してしまう、という危険にさらされている人はないでしょう。ですから、なぜこれが誘惑であるのか、かえってわかりにくいかも知れません。食べるものがない。このことの重さを世界の現実を学びながら、わきまえておかなければなりません。

(6)出エジプトの荒れ野の民

 もともとこの言葉は申命記の言葉でありました。主イエスは、それを引用なさったのです。イスラエルの民が、エジプトから導き出された後、荒れ野で40年の放浪の旅を続けたその最後の時の言葉です。ゴール寸前の折、荒れ野の40年を振り返って、神様がモーセに語ることを命じられた。

「あなたの神、主が導かれた40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」(申命記8:2〜3a)。

 神様はただ人を困らせようとされたのではありません。ですから人を飢えのまま放ってはおかれませんでした。毎日毎日、マナという天から来る不思議な食べ物で、直接、彼らを養われたのでした。ここで例の言葉が出てきます。
 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるものであることをあなたがたに知らせるためであった」(申命記8:3b)。
 つまり神様は、「パン」をお与えになりながら、それを通して彼らを本当に養っているのは誰かということを教えようとされたのです。そしてこういう言葉が続きます。「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)。わたしの恵みはあなたに対して十分であった、必要なものはみなすべてあなたに与えた、ということです。
 私たちにパン、すなわち、毎日の食事が必要であることは、神様ご自身がよくご存じです。そしてそのパンを与えながら、「あなたは神の言葉によって生きるのだ」といわれる。神の言葉を聞きつつ、神によって生かされていることを覚えるのです。
「神の言葉によって生きる」ということは、すべてのもの、食べ物も衣服も住まいも家族もすばらしい音楽も、みんな神様からいただいたものとして、感謝して生きる、ということに他なりません。

(7)蜜よりも甘い神の言葉

 今日は、旧約聖書は、詩編119編の言葉を読んでいただきました。
その中に「あなたのみ言葉はわたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)という有名な言葉があります。神様の言葉こそが、私たちの道を照らし、私たちの歩みを照らすものです。今日は、その前から読んでいただきました。

「あなたの仰せを味わえば、
わたしの口に蜜よりも
甘いことでしょう。」(103節)。

 神様の言葉は、味わわないと、おいしくない。しかしよく食べて、よく味わえば、それは蜜よりも甘いというのです。
 私たちはしばしば食べ物はおいしいけれども、神様の言葉は苦い。でも苦くても栄養があるから、がんばって食べておこうかと考えます。最初はそうかも知れませんが、よく味わえば、蜜よりも甘い。それが神様の言葉なのです。その言葉が私たちを養うのだと言おうとしているのではないでしょうか。
 悪魔は、何か難しい神学議論を挑んできたわけではありませんでした。お前は神を信じるか。三位一体の神とはどういうものか言ってみろとか、処女降誕は本当にあるのかとか、そういう神学議論をしてきたのではないのです。ある意味では、レベルの低いと言えるような、食べ物のこと。しかし最も身近なもの、最も根源的なもので挑んでくる。そのところで、私たちを神から引き離そうとするのです。
 私たちは何によって生きるのか。イエス・キリストは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。
 私たちはいろいろなものに取り囲まれています。このイエス・キリストから目を離さず、悪魔の誘惑から逃れるためにも、神様の言葉に目を向け、心を開いていきましょう。


HOMEへ戻る