権力と繁栄

〜ルカ福音書による説教(16)〜
歴代誌上29章10〜20節
ルカによる福音書4章5〜8節
2008年3月2日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)第二の誘惑

 荒れ野の誘惑の物語を読んでおります。第一の誘惑は、パンに関すること、「飢え」という究極状況から来る誘惑であり、それは人が生きるのに最も基本的なところでの誘惑でした。今日はその第二ラウンドでありますが、悪魔がここで持ち出したものは「この世の権力と繁栄」でありました。

 「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任せられていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる』」(5〜7節)。

 人は「権力と繁栄」に弱いものです。誰しも、より強くなりたい、より偉くなりたい、より豊かになりたいと願っているのではないでしょうか。その最高のものを見せつけられるのです。皆さんなら、もしもこの世のすべてのものを操ることのできる権力と、この世のすべての繁栄が手に入ると言われたら、いかがでしょうか。果たしてその誘惑を退けることができるでしょうか。
 この世のすべての繁栄などというのは想像がつきません。ルイ・ヴィトンのバッグどころではありません。ベンツの車どころではありません。六本木ヒルズどころではありません。ありとあらゆる宝物。私が想像できるのはせいぜいその程度ですが、それらすべてを束ねてもまだまだ足りない位の繁栄です。私などは、一発でころっと行ってしまうのではないかと思います。

(2)悪魔の手口

 悪魔の手口はなかなか巧妙であります。まずすべての国々を見せます。特に、断食をした後、荒れ野からやってきたならば、こんなに豊かな世界があるのかと目がくらむでしょう。皆さんもテレビでセレブの超ぜいたくな生活が紹介されて、ため息が出るような思いをすることがあるのではないでしょうか。しかしその段階ではまだ誘惑ではありません。自分と関係がないと思っているからです。そこで、「それを全部お前に与えよう」というのです。聞いた方は耳を疑います。「えっ、何だって。」夢の夢の世界が、急に自分の現実の中に入ってくる。普通はそこでもう頭が真っ白になってしまって、後のことは耳に入りません。そうなった時に、悪魔は「ただし、もしもわたしを拝むならね」と、そっと付け加えるのです。もう感覚が麻痺してしまって、何でもOKを出してしまうのではないでしょうか。悪魔は恐らくそれをねらっているのでしょう。
 「これを全部お前に与えよう」ということは、言い換えれば、「これらを共同運営しないか。あなたを副社長にしてあげよう」という感じでしょうか。もっとも悪魔は本当の社長ではありません。本当の社長は、他にいるのです。悪魔は社長のふりをして、社長室から印鑑や大事な書類を持ち出して、トリックをやっているようなものです。そして社長の息子に近寄ってきたのです。この社長の息子は、本来、社長の後継ぎであり、社長と同じ権利を持っています。ところが悪魔にしてみれば、「この息子はまだ経験も浅い。恐らくこの世の繁栄なんて見たこともないだろう。今ならまだ自分の手に落ちるかも知れない」と思っています。「今のうちにこの息子を抱き込めば、後は自分の思いのままだ」と思ったのでしょうか。

(3)持てば持つほど欲しくなる

 ここに「繁栄」と訳された言葉は、ラテン語で言えばグローリアです。グローリアと言えば、「栄光」です。これは本来、神様の栄光をたたえる言葉であります。神の栄光か、この世の栄光か、あなたはどちらの前にひざまずくのか、どちらの方が価値あるものと思っているのか、どちらが欲しいのか、と問われているのです。
 私たちは果たして、「地上の栄光には価値が無く、神の栄光の方が上だ。神の栄光の前にひざまずく」と言い切れるでしょうか。頭の中ではそうわかっていても、心はそうはいかない。あるいは口ではそう言っていても、心はそうはいかない。私たちの心は、この世の富と権力へと向かうのです。地上の栄光の方が輝いているように見える。そちらの方が目に見えるからです。
 一つ目の誘惑(パンの誘惑)がどちらかと言えば、持たざる者への誘惑であったとすれば、こちらは持てる者への誘惑と言えるかも知れません。もちろん誰にとっても誘惑ですが、富と権力は持てば持つほど、さらに手に入れたくなるのです。しっかりと神を見ていなければ、だんだんと神のように何でもできるようになりたいと思ってしまう。成功すればするほど、そのように錯覚してしまうのです。ふと気がつけば、その成功と繁栄なしに生きることができなくなってしまう。その繁栄のしもべ、繁栄の奴隷になっているのです。それを失わないためには、戦争もやむをえないということになってしまう。それこそが悪魔のねらいなのです。
 一つ目の誘惑が身体的なもの、肉体的なものであったとすれば、この二つ目の誘惑は政治的なもの、あるいは経済的なものという風に言えるかも知れません。
 いかがでしょうか。今日の世界における戦争、紛争のほとんどは、繁栄のため、あるいはその繁栄を失わないためであるのではないでしょうか。何とか今の自分たちの生活を維持するために、どこか別の国で犠牲になっている人がいるのではないでしょうか。

(4)『カラマーゾフの兄弟』

 最近、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を、話題の亀山郁夫氏の古典新訳シリーズ(光文社)で読み直しました。最初は高校生時代に読み、二回目は神学生時代に読み、今回は三回目でありました。こんなにすらすら読めていいのかと思うほど、読みやすいものであります。まだ一度もお読みになっていない方も、これまで何度か読みかけて挫折なさった方も、ぜひこの機会にお読みになるとよいと思います。改めて『カラマーゾフの兄弟』のすごさ、深さというのを実感いたしました。ある人が「ドストエフスキーは現代の聖書だ」と言っておられたのを思い出します。
 さて、この『カラマーゾフの兄弟』の中に、「大審問官」という章があります。これはカラマーゾフ三兄弟の次男、イワン・カラマーゾフが、自分で創作した劇のあら筋を、三男のアリョーシャ・カラマーゾフに語って聞かせるという話であります。大叙事詩、劇中劇のようなものです。イワンは自称無神論者であり、アリョーシャは敬虔なクリスチャン(修道士見習い)であります。しかしイワンは自分では信仰をもっていないと思っていますが、彼の中にも深い信仰のようなもの、あるいはそれと表裏一体のものを秘めていることがよくわかります。

(5)「大審問官」

 「大審問官」の舞台は、16世紀のスペイン、宗教裁判の盛んな時代です。大審問官というのは、その裁判長、いわばその地域のキリスト教世界の最高責任者であります。そこへ、ひょっこりイエス・キリストが帰ってくるという話なのです。
 彼は人知れずこっそりやって来たのに、どういうわけか人々は皆、それがキリストであるとわかってしまいます。そこへ大審問官が通りかかり、キリストを捕えてしまうのです。大審問官も、それがキリストだと分かっているのです。その夜、大審問官は、こっそり牢屋のキリストを訪問し、こう告げるのです。

「お前はなぜ今頃、のこのこと帰ってきたのか。困るではないか。お前が去った後、キリスト教会は、実はお前の教えの上に築かれてきたのではない。本当は、あの時、お前と対決したあの悪魔の方が正しかったのだ。お前のせいで、キリスト教会はこんなに苦労をしたのだ。大多数の一般民衆にとっては、パンを与えられて、奇跡と神秘を見せられて、絶対的な権力の元に置かれた方が幸せなのだ。そのことを示してくれたのは、お前ではなく、他ならぬあの時の悪魔であった。」

 90歳になる大審問官にとって、それはこれまで誰にも言えなかった秘密でありました。それを突然、自分の目の前にあらわれたキリストに向かって、息せき切ったように、とうとうとぶち負けるのです。この大審問官は、人間とは自由の重荷に耐えられないか弱い存在であり、自由と引き換えにパンを授けてくれる相手にひれ伏すことを求める哀れな生きものであることを告げるのです。

 「知るがいい。わたしはおまえなど恐れてはいない。知るがいい。このわたしも、かつて荒野にあって、イナゴと草の根で飢えをしのいだことがあった。おまえが人々を祝福した自由を、祝福したこともあった。……だが、わたしはふとわれに返り、おまえの狂気に仕えるのがいやになった。そこでわたしは引き返し、おまえの偉業を修正した人々の群れに加わったのだ。……もう一度言っておくが、明日にもおまえは、そのおとなしい羊の群れを見ることになるのだ。われわれの邪魔をしにきた罪で火焙りになる炎に、わたしの指ひとつでわれ先にとおき火をかきあげる人の群れだ。われわれの火刑にだれよりもふさわしい者がいるとするなら、それこそはおまえだからだ。明日、わたしはおまえを火焙りにする。これで終わりだ」(p.288)。

 大審問官は口をつぐみますと、目の前のキリストが自分に答えてくれるのをしばらく待っています。相手の沈黙が、自分にはなんともやりきれない。老審問官としては、たとえ苦い、恐ろしい言葉でもいいから、何か言ってほしかった。しかしキリストは何も言わないのです。あのピラトの裁判におけるキリストを彷彿とさせます。
 さてこの大審問官とキリストとの対面、最後がどうなるかと言えば、次のようになります。(言わない方がいいでしょうか。私はよく最後まで言ってしまって、「ネタバレしちゃ、だめですよ」と叱られますが)。
 キリストは無言のままふいに老審問官の方に近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇に、静かにキスをするのです。そこで老審問官は、ぎくりと身じろぎをする。そして彼はドアのほうに歩いて行き、ドアを開けてこう言います。『さあ、出て行け、もう二度と来るなよ、、、、絶対に来るな、、、絶対にだぞ、ぜったいに!』そしてキリストは立ち去って行くのです。
 この「大審問官」は、創作ではありますが、とても真実味のある物語ではないでしょうか。彼は、民衆のためと言っていますが、それを言い訳のように用いながら、彼の心の中には、やはり権力への誘惑があったに違いないと思います。そういう意味では、この大審問官自身が、悪魔にひざまずきながら、この世界、そして皮肉なことに、キリスト教世界をうまく操れるすべを、悪魔から受け取っているのです。

(6)ただ神に仕えよ

 聖書本文に戻りますと、この誘惑に対してイエス・キリストはこう答えられました。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』と書いてある」(8節)。

 これは申命記6章13節の言葉であります。イエス・キリストは、悪魔の三つの誘惑に対して、すべて申命記の言葉をもってお答えになっています。
 神に仕えるか、それともこの世の繁栄を手に入れるか。それは、あれかこれかの問いです。私たちはしばしば上手にこの世の繁栄や栄光も手にしながら、神様に仕えたいと願っています。しかし最後のところでは、自分は一体どちらを向いているのか。どちらに自分の生活の拠点を置いているのか。最後の最後に「どちらかを取れ」と言われたら、自分はどちらを取るだろうか。そういうことがここで問われているのです。
イエス・キリストが別のところで言われたように、私たちは「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)のです。

(7)「主の祈り」の頌栄の原型

 今日、旧約聖書の方は、歴代誌上の言葉を読んでいただきました。普段はなかなか開くことが少ないところであろうかと思いますが、これは神殿建築の時のダビデの祈りであります。この時にダビデの持っていた力(権力、財力)は非常に大きなものでありました。次の王であるソロモンの時に、イスラエル王国の力は最高潮に達しますが、今それを目前に控えている、そのような時であります。しかしながらダビデは、そこで栄光、権力、そうしたものをすべて神様に帰するのです。

「わたしの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します」(歴代誌上29:10〜13)。

 ダビデは王として踏みとどまるべき一線を守りました。どんな王であっても、おごり高ぶってはならない。神様に栄光を帰さなければならない。すべては神様に帰属する。そのことを知ってこそ、国を正しく治めることができるということを悟っていたのでありましょう。
 この言葉は、私たちが毎週唱えています「主の祈り」の結びの頌栄のもとになった言葉と言われています。私たちは、今ここでもう一度、自分たちの生活がどこに成り立っているか、それをしっかりと見据えて歩んでいきたいと思います。


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