巧妙な言葉

〜ルカ福音書による説教(17)〜
詩編91編1〜16節
ルカによる福音書4章9〜13節
2008年3月9日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)宗教的誘惑

 荒れ野における悪魔とイエス・キリストの対決、第三ラウンドであります。悪魔の第一の誘惑は「飢えの状態におけるパン」といういわば身体的なこと、肉体的なものでありました。社会的な一面も持っています。第二の誘惑は「権力と繁栄」という政治的、経済的なものであったということができるでしょう。イエス・キリストはそれらを「人はパンだけで生きるものではない」(4節)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(8節)という聖書の言葉でもって退けられました。いよいよ後がない悪魔は、今度は悪魔の方から聖書の言葉をもって挑んでくるのです。その意味では、この第三の誘惑は、宗教的なものであったと言うことができるかも知れません。
 悪魔は世界中の繁栄を見せた後、一瞬のうちにイエス・キリストをエルサレムへと連れて行きます。そしてエルサレム神殿の屋根の上に立たせて言いました。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』」(9〜11節)。

 ちなみにマタイとルカでは、第二の誘惑と第三の誘惑が逆になっています。つまり、マタイでは、悪魔は最後の力を振り絞って「これでどうだ」と言わんばかりに世界中の繁栄を見せつけたわけですが、ルカでは、その後で宗教的な問いを突きつけてくるのです。ルカはむしろこちらの方が究極の誘惑であったと考えたのでしょう。確かに神の子イエス・キリストにとっては、この世の繁栄よりも神とのかかわりの方が大問題であったと言えるかも知れません。
 「神の言葉」が誘惑の材料になるということは、非常にトゥリッキー(巧妙な)であり、恐ろしいことであります。そして、最後の舞台がエルサレムであるということも、ルカにとっては大事なことでありました。

(2)信仰の歌が誘惑の道具に

 さて悪魔が「こう書いてある」と言って引用したのは、先ほど読んでいただいた詩編91編11〜12節の言葉であります。
 この詩編は、元来、「どんな時にあっても神は私たちを守ってくださる」という信仰の歌でありました。この詩編はこう始まります。

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
 全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
『わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方』と。
神はあなたを救い出してくださる
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。」
(詩編91:1〜3)

 美しい、そして力強い信仰の歌です。しかし、いかがでしょうか。「神はあなたを仕掛けられた罠から、陥れる言葉から、救い出してくださる」と言っている言葉そのものが、悪魔の手にかかる時に、「仕掛けられた罠、陥れる言葉」になってしまうのです。信仰の歌が誘惑の道具になるのです。
 神の言葉を語っているからと言って、それが神に属するものかどうか、神から発せられたものかどうかわからない。これこそ、究極の誘惑ではないかと思います。教会で語られているからと言って、牧師が聖書の言葉を用いて語っているからと言って、それが「神の言葉」であるとは限らない。恐ろしいと言えば、恐ろしいことです。本当に何を信用していいかわからなくなります。
 皆さん、私がここで講壇から語っているからと言って、あまり信用しない方がいいかも知れません。それは冗談と言えば、冗談ですが、少なくとも理論的にはありうることです。(と言って、皆さんを安心させようとしている言葉自体が、また悪魔の言葉かも知れませんね。)
 しかし教区や教団の会議に出てみると、それが決して冗談ではないということを思い知らされます。そこでは、これが果たして教会会議かと思われるような議論がしばしばなされます。それぞれが聖書の言葉を根拠にして「自分の言っていることが正しい」という信念をもって語るものですから、この世の普通の会議以上にやっかいな面があります。そこではまさに自分の信仰が誘惑にさらされ、試されているようです。信仰の健全さを保つためには、あまりそういう会議に出ない方がよいかも知れないと思うことすらあります。

(3)二つの「神の言葉」の対決

 ここで主イエスは、聖書の言葉をもって誘惑してきた悪魔に対して、別の聖書の言葉でもってお答えになりました。
 「あなたの神である主を試してはならない」(12節)。
これは、申命記6章16節の言葉です。ここで、「神の言葉」と「神の言葉」が対決している。果たしてどちらの「神の言葉」が正しいか。
 聖書というのは、あれだけ幅の広い、そして奥の深い書物ですから、何かについて調べれば、ほとんどのことについて、必ず何かを語っています。しかもそこには、一見反対のように見えることもあります。
 例えば、聖書は奴隷制について何と語っているか、議論になったとします。創世記16章9節では、女主人サライのもとから逃亡している女奴隷ハガルに向かって、主の御使いは、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」(創世記16:9)と言っています。エフェソへの信徒への手紙では「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」(6:5)と語られています。こうした聖書の言葉を論拠に、奴隷制擁護の議論を展開することもできそうです。その一方で、出エジプトを導かれた神は、奴隷の状態から人間を解放する神だということが全体として告げられている。ですから、どういうコンテキスト(文脈)でその言葉が語られているかということを、注意深く聞き取っていかなければならないのです。
 ある思想や理論を、聖書の言葉をもって固めていこうとすればできてしまうのです。「エホバの証人」や「統一協会」などカルトと呼ばれるキリスト教の異端宗教も、全部聖書の言葉でその教義を作り上げています。しかしできあがったものをみてみると、似て非なるものです。本来の聖書のトーンとは違う。何かおかしい。
 あるいはイラク戦争の時にも、牧師や神父、つまりキリスト教の指導者たちが「この戦争は正しい戦争だ。正義の戦争だ」と言って、戦争を遂行する人たちや為政者を祝福し、鼓舞しました。「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌い、「神よ、この正義の戦争を勝利へと導いてください」と祈ったのです。そうしたところに究極の誘惑があるのではないかと思うのです、非常にわかりにくいことですが。

(4)語る牧師にとっても誘惑

 これは別の視点から見れば、それを聞く者だけではなく、牧師など聖書の言葉を知る者、語る者にとっても、同じように誘惑だと言えます。つまり自分自身の中で、二つの聖書の言葉が葛藤するのです。どちらが果たして信仰者としてふさわしい道であるのか。それを研ぎ澄まされた耳で聞いていかなければならない。悪魔が聖書の言葉を用いながら、自分にささやいているかも知れません。そのところでは、つい自分に都合のいい方を選んで、そちらを正当化するために聖書の言葉を用いがちになります。これが誘惑なのです。
 この時、イエス・キリストに向けられた誘惑も、奇跡を見せて人の注目を引くことによって、神の子であることを証明するということでありました。これは一見、もっともなことですし、実際、しばしばキリスト教会もそのことをやっているのではないかと思います。奇跡的な経験を語って、「神様はいる」と告げようとします。
 ブラジルに行きますと、テレビで伝道集会の様子などを放映しています。舞台の上に歩けない人が連れてこられて、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言うと、その人がさっと立ち上がって歩くのです。どうもあやしいですね。恐らくイエス・キリストにもやろうと思えばできたでしょうが、それはなさらなかったのです。

(5)主イエスの奇跡は愛と関係がある

 主イエスは数多くの奇跡をなさいました。しかしながら主イエスのなさった奇跡というのは必ずどこかで愛と関係がある。愛が科学の法則や自然の法則を打ち破って、出てきたのが主イエスの奇跡だと思います。あの水の上を歩いたというような、一見、愛と関係がないように見える奇跡でさえも、その時の弟子たちを励ますという意味がありました。その究極の形が、パンを増やして5千人の人たちを養ってあげるという奇跡でありました(ルカ9:10〜17)。
 しかし、石をパンに変えて自分の飢えを満たすことはなさらなかった。なぜか。それは愛と関係がないからです。神殿から飛び降りない。なぜか。それは愛と関係がないからです。ですから、主イエスは奇跡をなさった後で、しばしば「このことは誰にも言ってはいけない」とおっしゃいました(ルカ8:56等)。それは、愛の発露である奇跡でさえも、ひとたび一人歩きすると、別の力を持ち始めることをよくご存知であったからだと思います。

(6)悪魔の一時退却

 イエス・キリストは、この時、神殿の上から飛び降りずに、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節)とお答えになりました。そのように悪魔の誘惑を退けられ、悪魔はついに第三ラウンドにも破れるのです。
 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(13節)。
「時が来るまで」とあります。つまり悪魔は完全にあきらめたわけではなかったのです。やがてイエス・キリストは、この時悪魔が語ったのとそっくりの言葉をもう一回聞くことになります。それは十字架の上においてでありました。
 「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27:42〜43)。
 しかしイエス・キリストは、やはり降りてみせることによってではなく、むしろ十字架に留まり続けることによって、神の子であることを証明してくださいました。その方が愛と関係があるのです。

(7)『最後の誘惑』

 皆さん、『最後の誘惑』という映画をご存知でしょうか。1988年ですから、もう20年前の映画です。イエス・キリストのラブシーン、全裸シーンなどスキャンダラスな場面があるので、あまりお薦めできる映画ではありません。世界各地のキリスト教会から大きなブーイングを受けました。しかしその映画が問うていることは、非常に興味深いものです。
 最初に、この「荒れ野の誘惑」の場面が出てくるのですが、しばらくしてからイエス・キリストの十字架の場面になります。民衆が下から叫んでいます。そこに、白い服を着た天使のような少女が現れ、民衆の怒号が聞こえなくなります。その「天使」は、イエス・キリストの十字架の下で、「あなたはもう十分苦しんだ。もう苦しむ必要はありません」と言って、釘をすうっ、すうっと一本ずつ抜いていき、その釘の跡にキスをするのです。その後、「天使」に導かれてゴルゴタの丘を降りると、マグダラのマリアが花嫁として待っている。イエス・キリストは彼女と結婚をし、子どもも与えられます。しかし彼女に先立たれ、今度はマルタの妹のマリアと再婚をします。そして幸せに年老いていきました。その間、例の「天使」はずっと傍らにいるのです。
 イエスはついに死の床で、「自分の人生は幸せであった」というようなことを言います。天使は満足そうにしています。ところが、そこへかつての弟子が現れて、「こんなところで何をしているのです。あれは天使なんかじゃない。悪魔です」と叫ぶのです。イエスは、はっと我に返り、死の床から這いながら十字架へと帰って行くのです。そうすると、また民衆の怒号が大きくなる中、「すべてが終わった」と言って十字架で死んでいくのです。
 この映画は、何を言おうとしているのでしょうか。それは、まさに十字架から降りて、そのような歩みをすることが「最後の誘惑」であったということではないでしょうか。そこで描かれていることは、特に変わった人生ではありません。普通の人生です。しかしイエス・キリストにとっては、普通の人として生き、普通の人として死ぬということが「最後の誘惑」であったということでしょう。
 あの時もしも十字架から降りておられたならば、神の子の力の証明にはなったかも知れませんが、愛の証明にはならなかったでしょう。あの時もしも十字架から降りておられたならば、私とイエス・キリストは何のかかわりもなかったということになっていたでしょう。悪魔にとっては、それが最後の目的でありました。イエス・キリストをキリストでなくしてしまうことが、最後の誘惑であったのです。
そのところで、イエス・キリストはその誘惑に打ち勝って、息を引き取られました。
 「これが果たして神様の御心なんでしょうか。こんなことでいいのでしょうか。人々はかえって離れていくのではないでしょうか。」そういう問いの中で、それに打ち勝って、十字架で死んでくださった主イエスがおられる。だから私たちの救い主として、今も礼拝することができる。そのことの中に深い恵みがあることを心に留めましょう。


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