驚きと拒否

〜ルカ福音書による説教(19)〜
列王記下5章1〜14節
ルカによる福音書4章22〜30節
2008年9月21日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)驚きから信仰へ

 ルカ福音書を続けて読んでいます。前回は、主イエスが故郷のナザレの会堂において、イザヤ書61章の冒頭の言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と宣言されたという記事を読みました。
 その続き、つまりそれを聞いたナザレの人々の反応が、今日の私たちのテキストであります。このナザレの人々の反応というのも、どうも1回で起きたというよりは、何回かの反応がまとめて記されていると考えた方がいいようです。
 そうだとすれば、このところにも、イエス・キリストの生涯のダイジェストが記されていると読むこともできるかと思います。これから起こっていく人々の反応、それがここに最初に記されている。このナザレの人々の反応の中に、すでにイエス・キリストの十字架が見えてくる。なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったかということがあらわれていると思います。
 いろんな反応がここに記されていますが、最初の反応は、こうでした。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」(22節)。
 これはとても素直な反応であると思います。彼らはまずイエス・キリストを称賛したのです。イエス・キリストの語り口は、恐らく他のどんな人の語り口とも違っていたのであろうと思います。もちろんその内容にも心を打たれたのでしょう。この次に読みますカファルナウムにおける宣教の部分でも、「人々はその教えに驚いた。その言葉に権威があったからである」(32節)とあります。
 一番最初のナザレの人々の反応も、恐らくそれと似たようなものであったでしょう。他の人の権威主義的な語り方と違って、真の権威をもつ者としてお語りになった(マタイ7:28〜29参照)。
 信仰は、驚きから始まります。この恵み深い言葉は一体何だろう。こんな言葉は聞いたことがない。そして次第にそれが単なる言葉ではなく、確かな根拠をもっていることがわかってくる。そしてこの私にも、それが語られ、私にもその恵みが与えられていることを知り、それを受け入れていくのです。それが信仰であります。

(2)驚きから拒否へ

 しかしみんながそれを受け入れるとは限りません。残念ながら、この驚きはつまずきを含んでいます。人間の体でも移植などをして異質なものが入ってくると、まず拒否反応が起きます。それを受け入れていくために、体のどこかが変わっていかなければならない。
 イエス・キリストの言葉もそういう面がある。異質な言葉なのです。それを受け入れるためには、私たち自身が変わらざるを得ませんから、自分が変わろうとしない時には、そこで拒否反応が起こってくる。福音はつまずきを内に含んでいるのです。
 いろんな拒否反応がありますが、一番多いの、愚かな言葉であると、馬鹿にして切り捨てるというものでしょう。パウロ自身も、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものである」(Tコリント1:18)と言っています。また、パウロがアテネで宣教したときのこと。アテネの人々は好奇心が高く、パウロが珍しい、興味深い話をしていると言って、たくさんの人が集まってきて、熱心にパウロの話を聞きました。ところが最後のところで、「死者の復活」ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、去っていきました(使徒17:32)。「相手にしない」という反応です。もっともこの段階では、まだ本当には驚いていないのかも知れません。
 しかし驚いてしまったら、どうしたらいいのでしょうか。それを受け入れるか、受け入れない場合には、なぜ自分は受け入れないのかということを、自分なりに納得のいくように説明することが必要になるでしょう。ナザレの人は、こう言いました。「この人はヨセフの子ではないか」(22節)。この言葉自身は、ただ事実を語っているもので、いろんな意味に取れます。「あのヨセフの子、私たちが知っているあの家族の子がこんなに素晴らしい言葉を語っている。何とうれしいことだろう」と思った人もあるでしょう。しかしまたある人は、別の思いで同じ言葉を語ったことでしょう。「あのヨセフの家族から、そんな大それた人物が出るはずはない。」そのように、自分で自分を納得させ、驚きを解消させて、拒否していくのです。
 これは、最初のイエス・キリストの話の直後の反応であるかも知れませんが、むしろ何回か来ているうちに、「あの人は一体何なのだろう」という疑問が起きてきて、いぶかしげに思ったのかも知れません。イエス・キリストの評判が高まるに連れて、同時にそういう反応をする人も増えてきたのではないでしょうか。
 私たちは、身近にいる人ほど、その真価を見抜きにくいということもあるでしょう。主イエスも、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と言われました。

(3)特権意識

 しかし、どうもこれはイエス・キリストが身近であったから、その真価を見抜けなかったということだけではなさそうです。イエス・キリストは、こう言われました。
 「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」(23節)。
 前回申し上げたように、ルカ福音書のこれまでのところには、どこにもカファルナウムへ行ったということは書いてありません。これは何回か行ったり来たりした後のナザレの人たちの反応がまとめて記されているようです。
 「医者よ、自分自身をいやせ」ということわざは、「他の町の人をいやす位なら、自分たちの町の人を何とかしてくれ」、という意味合いで引用しているのであろうと思います。ということは、彼らがイエス・キリストの近しい存在であったがゆえに、わからなかったということだけではない。もっと深い問題がここにはあるのです。それはイエス・キリストの身近な存在である自分たちこそ特権を持っているという意識です。このことは単にナザレの人々の問題であるだけではなく、もっと大きな問題を指し示していると思います。

(4)雑多な町、カファルナウム

 そもそもなぜカファルナウムでの出来事が引用されているのでしょうか。当時のカファルナウムには、ユダヤ人以外の人(非ユダヤ人、異邦人)が多く住んでいたと言われます。7章に出てくるローマ人の百人隊長の僕をいやしの記事もカファルナウムでのことです。イエス・キリストの恵みは、ユダヤ人という枠組みを超えて、どんどん広がっていった。その枠に押しとどめることができない。そのことがルカ福音書の根本的な主題でもあり、ルカが福音書を書いた動機でもあります。恵みは、異邦人にまで惜しみなくどんどん広がっていくのです。
 そのことに対するユダヤ人たちの反応というのが、このナザレの人々の姿の中に映し出されているのではないでしょうか。「自分たちこそ特権をもっている。その恵みを外部の人にまでばらまくのはけしからん」ということです。「これは、自分たちだけが受け取る権利のあるものだ。少なくとも、自分たちが先だ。」

(5)二つの旧約聖書引用

 主イエスが、ここで二つの旧約聖書の話を引用されていますが、それもまさにそのことと関係があるのです。

「確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」(25〜26節)。

 この話は、列王記上17章に出てきます。飢饉が続き、雨が全く降らなかった時に、エリヤは一人の異邦人のやもめを訪ねます。エリヤは彼女の家で、壷の中の粉がなくならず、瓶の油もなくならない奇跡を起こして助けてくれました。その男の子が死んでしまった時にも神様に祈って生き返らせてあげました。主イエスは、その出来事を引用しながら、それはユダヤ人の家ではなかったというのです。そこには、神の自由な恵みの選びがある。
 もう一つは、預言者エリシャの話です。
 「また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(27節)。
 この出来事については、先ほど読んでいただいた列王記下5章に出てきます。詳しく語ることはできませんが、エリシャはあえて非ユダヤ人であるナアマンをいやされたではないか、ということであります。
 イエス・キリストは、この話を引用しながら、神の恵みが約束の民であるユダヤ人だけではなく、異邦人にも降り注がれているということをはっきりと示そうとされたのです。
 大事なことは、それは何もイエス・キリストが始められたことではなく、注意深く、(旧約)聖書を読むと、すでにそのように、ユダヤ人を超えて働く恵みの出来事がたくさん記されているということです。しかもそれは特定の預言者が例外的にやったことではなく、エリヤの時代にもあったし、エリシャの時代にもあった。「それはあなたがたが熱心に読んでいる聖書の中に、ちゃんと記されていることです。」

(6)主イエスの歩み全体を象徴

 しかし、ナザレの人々は、この言葉にカチンと来ました。
「これを聞いた人は会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを待ちの外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(29節)。
 いかがでしょうか。これを文字通り、最初の宣教の記事と読むか、もっと後の出来事とみるかは、議論のあるところでしょう。しかしルカは、それを最初におきました。これが主イエスの歩み全体を象徴するような出来事であったからです。最初に称賛があった。人々はいぶかしげに思って、拒否する人も出てきた。そのうちに怒りがこみあげてきて、ついには殺そうとするまでになったということでしょう。
 そこには、特権意識があったことには間違いない。ナザレの人々、ひいてはイスラエルの人々は、その特権を保ったままで、自分たちの願いをかなえてくれるメシアを待っていたのです。自分たちがもっている特権さえも取っ払って、恵みをふりまくメシアではおもしろくないのです。
 これはユダヤ教とキリスト教の違いということではありません。ユダヤ教の聖書(旧約聖書)の中にもそういう(垣根を取り払う)神様の姿があるのです。聖書の中に、恵みを一部の選ばれた人にだけ与えようとする一面と、その垣根を取り払おうとする一面の両方があります。二つのベクトルが存在し、対立していると言ってもいいかも知れません。確かにその両方が聖書に基づいているということもできる。しかしどちらに本当の神の御心があるのか、ということを私たちは謙虚に問わなければなりません。神学をするとはそういうことです。あらかじめ決まった正解を教えられることではないのです。
 このことは、ユダヤ教の問題だけではありません。新約聖書の中にも両面があり、この二つが対立していると言うこともできるでしょう。ですからまさに私たちの自身の信仰の問題でもあります。恵みはクリスチャンにのみ与えられるのか、すべての人に注がれているのか。(もちろんそれを恵みとして受けとめるかどうかは、こちらの姿勢の問題ですが)。その恵みがもしも他のすべての人にも注がれているとしたら、いかがでしょうか。私たちももしかしたら、このナザレの人々と同じように憤慨するかも知れません。

(7)神の恵みは、枠に収まらない

 しかし神様の思い、イエス様の思いは、そういう私たちの思いをはるかに超えて広いということをよくわきまえておく必要があるでしょう。「(天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)方なのです。
 イエス・キリストは天の国のたとえとして、ぶどう園で人を雇う話をされました。主人は、朝6時から働いた人にも、夕方5時に来た人にも同じように1デナリオンを支払ってやり、最後にこう語ります。
「わたしはこの最後の者にも同じようにしてやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(マタイ20:14〜15)。
 私たちは、その神様のもとでこそ、恵みが広がっていくということ、そしてだからこそ、私にもそれが注がれているということを知らなければならないと思います。
 イエス・キリストは、この時、すでに殺されそうになった(29節)のですが、「人々の間を通り抜けて立ち去られ」ます。まだその時が来ていなかったからということもできるでしょうが、私はそこにも神様の守りがあり、逃れの道を備えてくださるということを思うのです(一コリント10:13)。
 人間の思いと神様の計画がぶつかるところで、私たち人間の思いを越えて、神様の計画が優先する。その神様の計画のもとで、私たちが守られ、導かれていることを信じたいと思います。


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