イエスの正体

〜ルカ福音書による説教(20)〜
イザヤ書35章1〜6節
ルカによる福音書4章31〜37節
2008年10月12日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)神学校日

 本日は、日本キリスト教団が定めた神学校日であります。私たちの教会の奉仕神学生である柳元宏史兄は、本日、大泉ベテル教会の礼拝で説教していますので、心に留めてお祈りしたいと思います。本日の礼拝の献金は、日本キリスト教団を通じて、各関係神学校へ送られることになっています。伝道というのは、教会の最も大切な業でありますが、そのための働き人を送り出すことを、教会は祈り支えていかなければならないと思います。
 今日、私たちの礼拝に与えられた御言葉はイエス・キリストが一体何をなさったかということをよく語っています。救いを宣べ伝え、いやしをし、会堂で教えを語られた。今日の世界では、教会、病院、学校がそうしたイエス・キリストの働きを引き継いでいるということができるでしょうが、その中で神学校というのは、教会、学校の両方にかかわる大切な働きをしています。

(2)カファルナウム

 ルカ福音書の第4章は、イエス・キリストの宣教活動の始まりについて語っています。イエス・キリストはガリラヤ地方一帯で活動されました(15〜16節)。イエス・キリストが育たれた町はナザレでありましたが、このナザレではイエス・キリストは受け入れられず、追い出され、殺されそうになりました(28〜30節)。
 その後に記されているのが、今日のカファルナウムでの出来事であります。
カファルナウムは、ガリラヤ湖の北側にある湖畔の町です。エジプトからダマスコ(現在のシリアのダマスカス)に至る街道筋の重要な町、通行税の税関のある交通の要所でありました。住民の大半は貧しい漁師や大地主のもとで働く小作人でありましたが、外国人も多くいたようです。ギリシアやローマの文化の影響も強かったことと思います。
 興味深いことに、ルカ福音書7章5節には、このカファルナウムでは、ローマの百人隊長がユダヤ人たちを愛して、自ら会堂を建てたということが記されています。
 イエス・キリストは、このカファルナウムの町を特別に愛されました。23節では、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」とあります。ナザレの人々と違って、カファルナウムの人々は、イエス・キリストの言葉をよく受け入れました。マタイ福音書9章1節には、「自分の町」とさえ記されています。ここを活動の拠点になさり、伝道活動に疲れたら、この町へ来てその疲れをいやされたのでしょう。サッカーでは、サポーターに囲まれているところを「ホーム」、敵陣で戦うことを「アウェイ」と言いますが、イエス・キリストにとって、故郷のナザレはむしろ「アウェイ」であり、カファルナウムこそ「ホーム」であったと言えるかも知れません。そのような空気があって、このカファルナウムにおいて、イエス・キリストものびのびと自由に活動なさり、多くのいやしもなさったのでしょう。

(3)悪霊の働き

 そこで一つの事件が起こります。
「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ」(33節)。
この人は今日の言葉で言うならば、何らかの心の病いを抱えていたのであろうと思います。何とかそこから抜け出したい。イエス・キリストのうわさを聞き、「この方であれば、何とかしてくれるかも知れない」と思って、こっそりここにやってきたのかも知れません。最初はもしかすると、自分が誰であるかも隠しながら、じっとその話を聞いていたのではないかと想像いたします。ところが突然叫び出したのです。
 彼の中に二つのものがあり、彼の人格は、引き裂かれようとしています。本来の彼自身の中に、別の何かが入り込んできて、彼を支配しようとしている。そいう力のことを、聖書は人格的な表現で、「悪霊」「汚れた霊」と呼んでいます。
 悪霊の存在というのは、現代の私たちにとっては、時代錯誤のように思えるかも知れません。当時のユダヤ教(旧約聖書)にも、あまり出て来ません。そういう考え方は他の文化との接触によって入ってきたようです。悪霊は人の住まない荒れ野や、水がたくさんあるところや、空中および地下にいると言われていました。いずれも人間の住む世界の外です。時々、彼らは人間の世界にやってきて、人間の中に入り、その人の目を見えなくしたり、口をきけなくしたり、あらゆる身体的な障害、精神的な障害の原因となると考えられていました。

(4)キリストの働き

 今日では、こういう見方はとても原始的であり、医学的には問題があるかも知れません。医学で治る病気も、祈りによって治すということで、医者にかかろうとしない人がいるのも事実です。もちろんその多くの場合、医者にかかるお金が無いということもその一因であります。そういう問題をきちんと認識した上でのことになりますが、私はここに述べられているようなことは、本質的なところでは今日でも妥当性のあることではないかと思います。
 それは、私たち人間が人間を超えた力、決してあなどることができない、しかも人格的な力に支配されているということです。確かに病気は2000年前の当時に比べて、克服されてきているでしょう。しかしある病気が克服されても、かつては存在しなかった別の病気が現れてくる。特に精神的な病い、神経的な病いに関してはそうでしょう。さらにどんなに病気が克服されようとも、私たちはいつか死ななければならないという厳粛な事実は変わらないのです。
 イエス・キリストは、そういう私たちを苦しめるこの世のもろもろの力、病気だけではない、色々な形で私たちの前に立ちはだかって、私たちを支配し、私たちを内側をねじ曲げようとする力と闘い、それを打ち破り、私たちをそこから解放してくださるために、この世に来てくださった。それが聖書の、特にルカが語ろうとするメッセージであります。ルカがこの物語をここに置いたのは、この直前にイザヤ書を引用してイエス・キリストが語られたこと(18節)が、現実に起きているのだということを言うためであります。
 ここに登場する悪霊に苦しめられている人もそうです。この人の中で、二つのものが格闘しています。いやされたいという願いと、いやされたくないというと変ですが、いやなところに触れられたくないという相矛盾した感情が彼の中で激しくせめぎあい、対決しているのです。しかしこの人自身の力では、その悪霊の力にはかないません。それでイエス・キリストのもとに来たのです。しかしこの人の中の悪霊の力が、それに対して拒否反応を示します。
 悪霊は、この人の人間性を傷つけ、害し、虐げようとします。イエス・キリストは、その力に対抗し、この人の人間性を回復し、いやし、解放しようとします。悪霊は、この人を不安に陥れ、恐れを抱かせようとします。しかしイエス・キリストは、この人の不安を取り除き、平安と喜びを与えます。悪霊は、この人を絶望させようとしますが、イエス・キリストは、この人に希望を与えます。悪霊はこの人を断罪しようとしますが、イエス・キリストはこの人にゆるしを与えるのです。
 この二つのものが闘い、それが叫び声となってあらわれたのではないでしょうか。悪霊は、自分の力よりもイエス・キリストの力の方が強いと言うことを悟っています。この時、人間の中には、まだ誰もイエス・キリストが一体誰なのかをはっきり知っている人はいませんでした。やがて、イエス・キリストは弟子たちを育てて、その弟子たちに向かって「群集は、わたしのことを何者だと言っているか」「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになり、ペトロが、「神からのメシア(キリスト)です」と告白します(ルカ9:18〜20)。それが人間の口から出たイエス・キリストに対する最初の信仰告白ですが、それよりもずっと前の段階で、悪霊の方はイエス・キリストが誰であるか知っていたのです。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(34節)。41節では、悪霊はもっとはっきりと、「お前は神の子だ」と言います。悪霊は、力の面だけではなく、神を知る知恵の面でも人間よりも優っているということができるでしょう。悪霊の方が賢いのです。

(5)「かまわないでくれ」

 この悪霊の言葉は面白いです。「かまわないでくれ」という言葉は、以前の口語訳聖書では、「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」と訳されていました。そちらの方が原文に近いでしょう。悪霊は、「これは私とこの人の問題だ。じゃましないでくれ」と言っているのです。その人と自分だけのことであれば、自分が完全に支配できると、悪霊は知っています。しかしイエス・キリストが係わってくるとそうはいかない。自分の方が、分が悪い。
「正体を知っている」というのも面白い訳です。私たちが普段、正体という言葉を使う時には、あまりいい意味では使わないのではないでしょうか。「いくら隠そうとしても無駄だ。お前の正体はばれている」などと言います。「お前が誰であるか知っている」ということです。
 「正体」とは、『広辞苑』では、まず「@まことの身。本体。」とありました。本当の姿です。それは、神から遣わされた聖なる者、あるいは神の子であるということです。悪霊は体全体がその危険を察知したのですが、人間はまだ誰もそれを見抜いてはいなかった。
 二つ目に「A変化するもとの姿」とあります。これも当てはまるように思います。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ……ました」(フィリピ2:6〜8)。「変化するもとの姿」は、他ならない神の姿なのでした。
 イエス・キリストは、その人に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中になげ倒し、何の傷も負わせずに出て行きました(35節)。正面から戦っても、イエス・キリストには勝てないということを知っていたのです。

(6)小山晃佑先生のコメント

 さてイエス・キリストの大切な御業、中核的な業の中に、「悪霊を追い出す」ということがありました。そのことは、今日の私たちにとっても、広い意味で、広い形で、大事な意味をもっていると思います。
 このことについて、私は、ニューヨーク・ユニオン神学校の教授であった小山晃佑先生が、数年前、来日された時に言われたことを思い起こすのです。それは、日本聖書神学校で神学生の質問に答えて、言われたことでした。学生の質問は、「小山先生は、使徒信条についてどう思いますか」というものでありました。小山先生は、それに答えて、こういう風なことを語られました。
「使徒信条の背景には、その時代の教会の状況がある。それは今日の教会の状況と同じではない。だから、それを絶対視してはいけない。それは真理そのものではなく、真理を指し示す道しるべのようなものだ。あっちではない。こっちだよ。」その後に、こんなことを付け加えられました。「使徒信条は、『(主は)おとめマリアより生まれ』から『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』まで、ぽーんと飛んでしまう。イエス・キリストがその間に、この地上でなさったことについて、何も語っていない。たとえば、その間に、『悪霊を追い出し』というような言葉があれば、何か落ち着くのですがね」と、少し冗談っぽくおっしゃいました。なるほど、と思いました。
 イエス・キリストは十字架にかかる前の間、一体何をなさったのか。それは広い意味で言えば、「悪霊を追い出す」ということではなかったでしょうか。「悪霊」というのは、私たちを苦しめるさまざまな力、さらに、私たちを誘惑して、神様から引き離す力を象徴しているでしょう。しかもそれが単なる「力」ではなく、人格的な威力をもって私たちに迫ってくるのです。
 また私たちは、イエス・キリストのなさった御業を、個人的・内面的な次元で捉えがちですが、「悪霊を追い出す」という表現は、イエス・キリストの御業が、社会的広がりをもっていたということも思い起こさせてくれます。(もちろん、小山先生は、使徒信条を変更しろと言っておられるのではりません。念のため。)

(7)悪霊を追い払いなさい

 今日の世界でも、私たちの誰しもが平和を願い、誰一人戦争を望んでいないはずであるのに、なぜこの世界に戦争が絶えないのか。やはり悪霊が私たちを支配して、世界全体が悪霊の支配下に置かれているから、と言えないでしょうか。私たちを何かそちらへ、そちらへと、強い力で引っ張っている。そうした力から私たちを解放するために、イエス・キリストは来られたのです。
 イエス・キリストは弟子たちを召集して、弟子たちを派遣されます。神学校日というのは、そういうことを心に留める時でもあります。ご自身が悪霊を追い出されただけではなくて、弟子たちにも悪霊を追い払いなさい、と命じられた(マタイ10:8)。そもそも彼らを弟子として召し集められたのも、汚れた霊に対する権能をお授けになるためでありました(マタイ10:1)。
 教会の業とは、救いを宣べ伝えると同時に、この世界から悪霊を追い出すことでもあるでしょう。神学校日にあたって、私たちも伝道者を送り出すために祈り、支えていきましょう。


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