小さな一人と共に

〜ルカ福音書による説教(21)〜
詩編62編1〜9節
ルカによる福音書4章38〜44節
2008年10月28日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)日常生活のただ中に

 本日は、礼拝の後で、バザーが行われます。比較的小さな規模のものですが、皆さんが心をこめて、力をあわせ、持てるものを持ち寄って行います。バザーで行うことは、いわば商売です。しかし、それらはすべて自分の利益のためではなく、教会のために、(私たちの教会の場合には、教会外のさまざまな活動にささげる資金を得るために)、行われるものです。主の御用のために行われるものであります。そうしたバザーを、イエス・キリストもきっと喜んでくださる。教会の主であるイエス・キリストは、このバザーの主でもいてくださると、信じるものであります。
 今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、前回に続き、イエス・キリストが病気の人をいやされた話であります。私たちの日常生活のただ中に、入ってきてくださるイエス・キリストの姿が描かれておりますので、その意味で、バザーの日曜日にふさわしい箇所が与えられたと思っています。

 「イエスは会堂を去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」(38〜39節)。

 シモンとは、後のペトロです。ここでのいやしは、歩けない人が歩けるようになったとか、目の見えない人が見えるようになったとか、悪霊を追い出して人を正気に戻したとかいうような大奇跡ではありません。高熱で苦しんでいるのを、熱を下げてあげたというような、どちらかと言えば、小さないやしです。
 ここでのイエス・キリストは、往診の町医者のようであります。ごくありふれた日常生活の中に、イエス・キリストがすっと入ってこられて、ちょっとした困ったことにもわずらわしいと思わないで、助けの手を差し伸べてくださる。小さないやしであるだけに、かえってイエス・キリストが身近に感じられる話ではないでしょうか。

(2)ペトロは結婚していた

 私はこの箇所を読んで、「ペトロは結婚していたんだ」と思いました。しゅうとめがいたということは結婚していたということです。ご承知のように、現代のカトリック教会では、神父やシスターは結婚しません。独身誓願を立てて献身するのです。しかしカトリック教会が初代教皇とあおぐペトロ自身は結婚していたというのは、おもしろいと思いました。つまり最初から、神父は結婚しなかったわけではなかったということです。独身制(celibacy)というのは、イエス・キリストの「天の国のために結婚しない者もいる」(マタイ19:12)という言葉や、パウロの独身のすすめに基づいています。パウロは、このように言っています。

「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにあなたがたに言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(一コリント7:32〜35)。

 イエス・キリストは生涯独身でありましたし、パウロも自分が語ったとおり、独身でありました。しかし決して独身を強いているわけではありません。あくまで自由に、その方が主に仕えるのに差支えがないということでしょう。
 その後、独身制は、初代教会の頃から少しずつ制度化されていって、最終的に1139年の第二ラテラノ会議で、明確にされたということです。

(3)カトリックの宣教師たちとの交わり

 私は、ここでパウロが言うこともわかる気がします。独身制の意義は確かにある。結婚をしないということは家庭をもたないということです。
 私は、ブラジルに行って、最初はサンパウロで日本人教会の牧師と日本人幼稚園の園長をしましたが、2年目位に自分のポルトガル語の力が足りないことを痛感し、首都ブラジリアにあるカトリックの外国人宣教師のためのコースで学ぶことにしました。カトリックの宣教師たちは、ブラジルへ来たら、宣教活動に入る前に、まずそこへ行って4ヶ月間集中訓練をするのです。私は幸か不幸か、日本語でできる仕事でしたので、そのまま現場に入ってしまったのでした。とにかく遅まきながら、そこでポルトガル語の訓練を受けながら、世界中から来たカトリックの宣教師たちとの共同生活をしました。それはとても貴重な、豊かな経験でした。しかしそこでしみじみと私は彼らとの立場、生活の違いを思いました。
 私にとって、4ヶ月間サンパウロを離れるということは、教会や幼稚園を留守にするということと同時に、家を留守にするということでもありました。その間、家族がどうするかということを常に考えておかなければなりません。パウロの言ったとおりです。子ども寛之はまだ1歳でした。日本のように他の家族がそばにいるわけでもありません。
 そもそもブラジルで宣教師として働くこと自体、家庭をもっている私にとって、色々な問題を伴ってくることでした。「妻は同意してくれるだろうか。」「子どもができた。この子の教育をどうしようか。学校がないような田舎に行くことはできない。将来は何語で教育を受けさせるべきか。いつか日本へ帰るのであれば、ポルトガル語よりも英語の方がいいのではないか。しかしアメリカンスクールは、経済的にとても無理だろう。」家庭を持ちながら献身をするということは、そうしたことを全部引きずっているということです。パウロの言うとおりです。
 語学研修後も、そこで知り合った神父やシスターたちとよい交わりがあり、彼らの宣教の地を訪ねたりしました。彼らのうちの多くは、辺境の町や村で生き生きと働いていました。彼らは身軽で、ほとんど財産ももたず、主の遣わされるところならば、どこへでも、いつでも行く用意ができているように見えました。独身だから、そうしたことも可能なのでしょう。プロテスタントの宣教師に比べれば、本当に自由です。結婚して家庭をもっていれば、なかなかそうはいきません。
 私は、結婚しない誓願を立ててまで、イエス・キリストに従う決心をした彼らを尊敬し、また自由な彼らを少しうらやましく思いました。ブラジリアでの共同生活においても彼らは本当に若々しく感じました。夜遅くまで、軽くお酒を飲んで、ダンスをして、何歳になっても永遠の青年会のようでした。結婚すると一気に所帯じみてきます。
 しかし他方(少し開き直り気味に?)、家族を持ち、それに伴う責任を負いつつ、献身して主に従うことも意味があると思います。この点で、プロテスタントの牧師は、他の信徒の方々と同じところに立っています。家族の問題を抱え、悩み、祈りつつ、イエス・キリストに従っていくのです。
 ペトロも家族をもっていた。家族をもち、妻の母と同居し、家族との生活をもったまま、イエス・キリストに従っていきました。彼は、漁師の網は捨てましたが、家族を捨てたわけではありませんでした。

(4)最初の牧師の結婚はルター

 独身制という教会の伝統の中で、聖職者の結婚ということに道を拓いたのは、他ならない宗教改革者のルターでありました。本日、10月の最後の日曜日は、宗教改革記念日であります。ルターの宗教改革の意義については、折々に申し上げていますが、今日は、少し、ルターのもうひとつの面に目を向けてみましょう。
 ルターは独身生活を続けていながらも、だんだん独身制の意義について疑問を持つようになっていったようです。
 一方、修道女の中には、自分の意思で修道女になるというよりも、没落貴族の娘が家にお金がなくなり、修道院に送られるというケースが多くありました。いわゆる口減らしです。10代で修道院に入れられる。修道女になってしまうと結婚はできない。逃げ出すこともできない。そうした中で、ルターは多くの修道女たちの脱出の手助けをいたしました。
 後に結婚することになるカタリーナ・フォン・ボラという人も、そういう修道女の一人でした。彼女たちはもともと良家の女性たちであり、教育も受けていますので、すぐに相手が現れて、結婚していきます。ところがこのカタリーナだけはなかなか結婚しようとしない。ある縁談が入っても、彼女は承諾しない。そして彼女は、逆に、「ルターとなら、結婚してもいいです」と言ったそうです。しかし自ら修道の道を選んだルターは、最初は取り合わなかったようですが、カタリーナがルターの身の回りの世話をするようになり、いつしかルターも彼女を頼るようになる。そしてある日、カタリーナが「あなたは私と結婚すべきです」と言って、結婚に至ったそうです。
 1525年6月13日、42歳の元修道士のルターと26歳の元修道女カタリーナは結婚しました。ヴィッテンブルクでは、6月第三週の週末はルターの結婚式というお祭りになっています。これがいわばプロテスタント教会の牧師が所帯をもって献身をする最初のケースとなりました。

(5)家庭の主、キリスト

 さて聖書本文に戻りますが、主イエスがペトロのしゅうとめのそばで熱を叱りつけると、熱は去りました(39節)。
 私たちは家族の中にあって、家族の心配をしなければなりません。子どもを育て、年老いた親、しゅうと、しゅうとめの面倒をみなければなりません。しかしながら、イエス・キリストはそういう家庭の中に入ってきてくださって、その問題を共に担いつつ、解決し、心配を共に悩みつつ、いやしてくださるお方です。
 全世界の主であるお方は、同時に私たちの小さな家庭の主でもあります。歴史の主であるお方は、同時に小さな私たち一人一人の人生の主でもあるのです。
 私たち夫婦が結婚した折に、ある方がすてきな壁掛けをくださいました。それにはこう記されています。

"Christ is the Head of this house, the Unseen Guest at every meal,the Silent Listner to every conversation."
(キリストはこの家のかしら、
食事ごとの見えざる客、
会話のたびの静かな聞き手である)。

私たちは、いつもそのことを忘れずに毎日の生活を送りたいと思うのです。

(6)一人一人に手を置くキリスト

 前回、イエス・キリストはカファルナウムの町を特別に愛されたということを申し上げましたが、今日のところを読みますと、そのことがよくわかります。故郷のナザレではあまり歓迎されませんでしたが、カファルナウムの人々は、イエス・キリストを慕い、その力と存在を認め、次から次へと人々が押し寄せてきました。
 「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」(40節)。イエス・キリストは夜遅くまで、シモン・ペトロの家で、深夜まで、もしかすると一睡もしないで翌朝まで、いやしをなされたのではないでしょうか。イエス・キリストは、面倒くさいからと言って、十把一絡げに、「みんな病気が治れ」という風になさったのではありません。「悪霊たちよ、一斉にここから立ち去れ」とお命じになったのでもありません。
「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」(40節)。そこには、イエス・キリストの愛が感じられます。「どうなさったのですか。どこが痛いのですか。」どんな小さな一人もおろそかにされない。そしてその小さな一人一人と歩んでくださるのです。その様子が目に浮かぶようです。

(7)歓迎されても立ち去る

 47節には、「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」とあります。これは眠るためではなく、祈るためであったのでしょう。主イエスは、どんなに忙しい生活をなさっていても、祈る生活を大事にしておられた。祈りこそが主イエスの活動の原動力でありました。地上は、イエス・キリストにとっては異郷の地です。ふるさとは天です。しかしその地上にあっても、一人で祈り始めると、すぐに天の神様と交わりを持てたのであろうと思います。
 しかしそのひとり静かな祈りの場所までも人々は押し寄せます。「群集はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに止めた」(42節)。ナザレの場合と全く逆です。イエス・キリストにとってはうれしいことであったかも知れませんが、そのままそこにとどまることはなさいませんでした。後ろ髪を引かれるような思いを持ちながら、カファルナウムを去る決意をされる。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らさねばならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(43節)。そして、ナザレとは別の意味で、あるいは逆の形で、逃げるようにしてその町カファルナウムを立ち去るのです。
 イエス・キリストは、「食する暇も打ち忘れて、虐げられし、友なき者の友となりて、心砕きし」(『讃美歌21』280)お方です。私たちも、「この人を見」、このお方に従っていきましょう。


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