驚くばかりの恵み

  〜ルカ福音書による説教(22)〜
  詩編103編1〜13節
  ルカによる福音書5章1〜11節
  2009年1月11日
  経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)収穫のない労働の後で

 新年を迎え、早2回目の日曜日であります。それぞれに仕事を始められたり、学校も休みが終わって授業が始まったりしていることと思います。順調な滑り出しをなさったでしょうか。忙しいお仕事をしながら、何とか時間を作って礼拝に出ておられる方も大勢おられるでしょう。夜勤明けの人はないかも知れませんが、昨日も夜遅くまで働いておられる方もあるでしょう。そのように忙しい仕事の生活も、それなりの成果があがればやりがいもありますが、忙しいばかりで成果があがらない時は、空しいものです。もしかすると、皆さんの中にも、昨年の経済危機の深刻な影響を受けておられる方もあるかも知れません。
 お金を得るための仕事に限らず、どんなことであれ一生懸命働いてもそれが報われない時というのは空しいものです。職場や学校、あるいは家族の中での人間関係においてもそうでありましょう。「これだけやったのに、全然だめだった。」そういうことは多かれ少なかれ、みんなそれぞれに経験しているのではないでしょうか。
 今日、読んでいただいたルカ福音書のシモン・ペトロも、実はそういう状態でありました。
 時は朝、舞台はゲネサレ湖畔。別の言い方をすると、ガリラヤ湖の岸辺でありました。シモンとゼベダイの子ヤコブとヨハネは、夜中から明け方の漁から帰ってきて、岸辺で網を洗っていました。夜の方がよく魚が獲れるのか、少しでも新鮮な魚を売るためであるのかわかりませんが、とにかく夜通し働いていたのです。ところが何もとれませんでした。しろうとならまだしも、プロの熟練した漁師が「ここなら魚がいるはずだ」と、網をおろして一匹もとれなかったのです。みじめなことだと思います。シモン・ペトロは、今はただ早く網を洗って、ただ眠りに着きたいと思っていたのではないでしょうか。

(2)群集に説教するイエス

 一方にそういうペトロと仲間の漁師たちがいますが、もう一方には、イエス・キリストとその説教を聴こうとしてイエス・キリストを取り囲む群集がいます。シモン・ペトロはすでにイエス・キリストを知っていました。4章38節以下では、シモンの家を訪ねて、そのしゅうとめの病気を癒されたという出来事が記されていました。シモンにとって、イエス・キリストはすでにかけがえのない人であったことでしょう。しかし今は、疲れきっていて、心もふさいでいます。「イエス様の話を聞くのは好きだけれども、それはもう少し心の余裕のある時にしたい。今は、できれば顔をあわせず、そっと立ち去りたい。」そう思っていたのではないでしょうか。
 必死になってこの世界で生きている人にとっては、この時のシモンの気持ちはよくわかるのではないでしょうか。「礼拝をする、教会に行くというのは、悪いことではないけれども、今の自分にはそんな余裕はない。もう少し時間ができてから、もう少し落ち着いてからにしたい。」そういう気持ちを持つこともあるでしょう。

(3)主イエスの方から

 ところが、そういうシモンのところに、イエス・キリストは、自分から出向いていって、「舟を貸して欲しい」とお願いされました。
 イエス・キリストは、大勢の群集に対して、少し離れたところから話をするために、沖の方へ舟を漕ぎ出させ、舟から岸辺に向かって話をされるのです。これはなかなかよく考えられた形です。
 シモンはイエス・キリストの頼みとあれば、断るわけにはいきません。しゅうとめの熱を下げてくださった恩人でもあり、もちろん尊敬もしています。それで舟を出しました。結果的に、イエス・キリストに一番近い特等席で説教を聞くことになりました。他の人たちはうらやましがったことでありましょう。しかしこの特等席は、彼が選んだものではありませんでした。他の人を押しのけて、かきわけて勝ち取ったものでもありませんでした。全く逆です。いわば、イエス・キリストに無理やり、そこに置かれたのです。そこにおらされたと言ってもいいでしょう。シモンが主イエスを選んだのではなく、イエス・キリストがシモンを選んだのでした。

(4)「お言葉ですから」

 やがてイエス・キリストの説教が終わります。シモンはこれでやっと本当に休めると思ったのではないでしょうか。しかし舟は岸へは帰りませんでした。シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と言われます。これは、人の目から見たら、意味のないことのように思えます。プロの漁師が、夜通し働いて何も獲れなかったのです。彼自身こう言っています。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」(5節)。
しかし彼は沖へ漕ぎ出していきました。
「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(5節)。
「お言葉ですが」ではなかったのです。「お言葉ですが」と「お言葉ですから」の違いは、決定的です。シモンは、どの程度の気持ちで、そう言ったのかはわかりません。仕方なくそう言ったのかも知れません。「あなたが語られた言葉に、とにかく賭けてみましょう。」イエス・キリストが命じているということだけが理由で、彼は沖へ漕ぎ出し、イエス・キリストが命じているということだけが理由で、網を下ろすのです。これはシモン・ペトロの冒険です。

(5)成人の祝い

 信仰というのはひとつの冒険です。信仰とは、自分自身に閉じこもって瞑想することではなく、主イエスの言葉に賭けて新しい歩み出しをすることです。シモンはいつも行き慣れているガリラヤ湖の中へ漕ぎ出して行きました。しかしいつもと違うことがありました。それは、自分の経験によるのではなく、イエス・キリストの言葉だけが理由で漕ぎ出していったということです。
 今日は、明日の成人式を前に、教会でも成人の祝いをいたします。成人するということは、どういうことでしょうか。これまでは親のもとで守られて、親に従って生活したけれども、これから先は、自分の責任で行っていく、ということでありましょう。これまでは、親の示す道が与えられた道であったかも知れませんが、これから先は、それを自分で考え、自分で決断し、自分で選び取っていかなければならない。就職も、結婚もそうでありましょう。
 創世記にアブラハムという人が登場します。彼は、信仰の父と呼ばれます。どうしてそのように呼ばれるのか。それは、彼がただ静かに主を信じたのではなく、主の言葉を信じて、信仰の冒険をしたからです。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)。
アブラハムは、ただその言葉だけを信じて、その言葉に従って、新しい出発をしました。「成人する」ということも、この「父の家を離れる」ということに通じます。それはただ引越しをするということではありません。主の示されることを信じて、自分で決断して歩み始める、ということです。
 アブラハムだけではありません。聖書に出てくるほとんど人がそうです。新約聖書では、パウロの場合が、特にそうでありました。パウロは、今日のペトロよりもずっと学問がよくできた人でした。学者としても十分に通用する博識家でありました。しかし決して書斎の人ではなかった。主イエスと出会って、劇的な回心をした後の彼の後半生は、ただ主イエスの言葉に賭けて歩んだ人生でありました。パウロは、ただイエス・キリストの言葉にだけ基づいて、地の果てにまで伝道旅行に出かけて行った実践の人でありました。

(6)恵みから罪の告白へ

 さて、そのような信仰の冒険をする時に、どうなるでしょうか。それは、決してむなしい徒労で終わることはないということを、聖書は語っています。もちろんそれは私たちが期待しているような形の祝福ではないかも知れません。しかしよき意思をもった神様は、必ずよい方向に導いてくださると思います。この時のシモンには、予期せぬことが待ち受けていました。

「そして漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(6〜7節)。

 シモン・ペトロは、ただ主イエスの言葉だけを頼りにして、もう一度漁をしたわけですが、その時、彼は半信半疑であったでしょう。ある程度は期待したにしても、こんな大漁だとは夢にも思わなかったでしょう。それはシモン・ペトロがよって立つところがぐらぐらと揺り動かされる経験でありました。
 ここで何かが起こっている。私たち人間の日常生活、生活の秩序のどこにも起こりえないようなことが起こっている。それに触れて、シモン・ペトロはどうしてよいかわからず、ひれ伏して言うのです。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)。これは不思議な言葉です。私たちの期待という器に入りきらない程の、主の恵み、驚くばかりの恵み、アメイジング・グレイスに触れ、それと出会って、彼は罪の告白をするのです。不思議な成り行きだと思います。
 私たちは普通、信仰に入る道筋として、まず自分が罪深い者であることを知って、それをどう解決すればよいかを探り、信仰を求めて主に出会い、悔い改めて救われる、ということを考えるのではないでしょうか。しかし実際には逆であることが多いように思います。
 私たちは、圧倒的な恵みに触れる時にこそ、自分はそれにふさわしくない者だということを知るのではないでしょうか。自分の姿だけを見ていても、本当は自分の罪というのはわからないのだと思います。神様から受けている恵みを知る時に、それを鏡のようにして、自分の罪というのが見えてくるのです。
 まずイエス・キリストがそこに立ち、ペトロに圧倒的な恵みを示してくださった。その中で、彼はむしろ、恐れとおのおのきを覚えつつ、「どうぞ自分を赦してください。私は罪深いものです」という告白がに導かれたのです。

(7)「先生」から「主」へ

 ペトロは、この時まで、イエス・キリストのことを「先生」と呼んでおりました(5節)。ところが、先ほどの言葉の中では、「主よ」と呼んでおります。「先生」であったお方が、ここでペトロにとって、「主」となりました。単なる人生の先生ではない。人生の主であります。
 洗礼を受ける前の方を、教会では、求道者という呼び方をします(もちろん私たちは、生涯「道を求める者」であり続けるわけですが)。私たちが初めて教会を訪れる時には、それぞれに何か内なる理由があることと思います。単純に、家族に誘われたとか、友だちに誘われたとか言うこともあるでしょうし、何か悩みがあって、「教会で解決の道を与えてくれるかもしれない」と思うこともあるでしょう。その時には、私たちにとって、イエス・キリストは人生の導き手、「先生」であると思います。ところが、ある日「このお方は、単なる先生ではなく、自分の人生の主だ、救い主だ」ということに気づいて、はっとすることがあります。ある種の転換が起こる。その時に「求道者」から「信仰者」になっていくのです。
今日は詩編の103編を読んでいただきました。

「主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。」
「主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。」
「天が地を超えて高いように
慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」
(詩編103:3〜5、8、11)。

 驚くばかりの恵みと慈しみが私たちに触れる。そういう出会いをする時に、私たちは人生が根底から揺さぶられる経験をし、同時に「従っていきたい」という気持ちが生まれるのではないでしょうか。
この出来事の後で、イエス・キリストは、再びシモン・ペトロに声をかけられます。
「恐れることはない」(10節)。
これは「あなたの罪は赦されている」ということであると思います。私たちは「自分の罪が赦されている」ということを知る時に始めて、罪深い自分の姿を直視することができるのではないでしょうか。この時ペトロは、最初の小さな冒険よりも、もっと大きな信仰の冒険へと踏み出すことになります。
「今からあなたは人間をとる漁師になる」(10節)。
 ペトロは、その言葉に「はい」と答えて従っていきました。私たち一人一人の人生にも、イエス・キリストはさまざまな形で近づいてくださいます。そして小さな冒険を促しながら、イエス・キリストに従う人生を歩むようにと、大きな冒険へと召し出されるのです。
 成人を祝うこの日、成人式を迎える人に向かって、またそれだけではなく、すべての人に向かって、そのように呼びかけられていることを信じて、新しく歩み出し、信仰の冒険をしていきましょう。


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