御心ならば

〜ルカ福音書による説教(23)〜
レビ記13章1〜8、45〜46節
ルカによる福音書5章12〜16節
2009年2月1日  
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)重い皮膚病

 イエス・キリストは、ガリラヤ地方のある町において、全身重い皮膚病にかかっている人に出会われました。この重い皮膚病というのは、単なる体の病気ではなく、宗教的に汚れた病気であると信じられていました。何か悪いことをしたから、この病気にかかったのだと、みんなが思っています。そして健康な人との交わりを絶たれ、人間扱いされませんでした。もしも誰か健康な人が近づいてきたら、「自分は汚れた者です。近づかないでください。触らないでください」と叫ばなければならなかった。そういう律法があったのです。
 先ほどお読みいただきましたレビ記13章45〜46節には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れたものです』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とあります。
 レビ記の「重い皮膚病」は、新約聖書の「重い皮膚病」よりも広い意味で、さまざまな種類の皮膚病が含まれています。しかし「汚れた」病気であると考えられていたことには変わりありません。社会から抹殺される。身を隠して退かなければならない。人が来たら遠ざからなければならない。こんなにつらいことはないと思います。
 「重い皮膚病」は世界中のほとんどの場所で、同じように呪われた病気として社会から隔離されてきました。それだけ恐れられた病気であったということもできるでしょう。その中には、今日で言うところのハンセン病も含まれています。

(2)三重苦を強いられた病気

 この人は三重の痛み・苦しみをもっていました。第一は、もちろん肉体的病苦です。体がいうことをきかない。痛い、あるいは重い皮膚病の場合には、逆に痛くなく、体の部分が崩れていくということもあるでしょう。
 第二は、宗教的断罪であります。体の病苦はつらいですが、それでもみんなに支えられ、励まされれば、まだ救いがあります。しかしこの病気の場合、「お前が神の前で何か悪いことをしたから、罪があるから、その罰としてそういう目に遭っているのだ」と宗教的に断罪されるのです。それによって罪悪感にさいなまれたことでしょう。
 そして第三は、それに由来する社会的疎外であります。みんなから仲間はずれにされる。だから治ったとしても体が癒されただけではまだだめです。癒された後で祭司に体を見せ、完全に治ったと認定してもらわなければなりません。そこで初めて全人的、社会的に回復するのです。
そのこともレビ記に記されています。
「祭司が調べて、確かに患部が白くなっていれば、『患者は清い』と言い渡す。その人は清いのである」(レビ13:17)。
 ハンセン病の場合、今日でも差別は根深く残っていますが、病気としては病原菌も発見され、克服されてきました。しかしいかがでしょうか。今日でも、この当時の「重い皮膚病」とよく似た形態を取る病気、つまり肉体的病苦と宗教的断罪と社会的疎外という三重苦を強いられる病気は、形を変えて存在するのではないでしょうか。私は、ここに書かれていることは、今日のエイズを巡る状況とよく似ていると思いました。病気の苦しみ、死への恐怖に加えて、あれは神様からの天罰だ、本人が、あるいは親が悪いことをしたからあんな目にあっているのだと言われる。そしてついに、社会からも疎外される。家族も、自分の家族からエイズ患者が出たということをひたすら隠し遠そうとするのです。

(3)主のみわざは周辺から

 しかし、神様のみ業はまさにそういうところから始まるのです。つまり中心ではなく、周辺、あるいは周辺へ追いやられた人々(マージナライズド)から始まるのです。神様の祝福を受けているように見える中心ではありません。見捨てられたような場所、誰もが避けて通る場所、人間扱いされないような場所、イエス・キリストは真っ先にそういう場所へ向かい、そこで人間と出会い、信仰と出会い、御業を始められる。聖書を注意深く読んでみると、そういう神様の方法、計画というものが浮かび上がって見えてくるのです。
 普通の物事の普及の仕方は、むしろ逆です。マーケティング・リサーチなどでもやりますように、まず大事なポイントとして中心を押さえる。そして中心から周辺に向かって広がっていく。日本では「まず東京を押さえろ」という風になります。
 しかし主イエスはそうではありません。この世の価値観とは違うのです。エルサレムからではなく、ガリラヤのナザレ、「ナザレから何の良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言われたその地域から始まっていく。王様の宮殿からではなく、ベツレヘムの馬小屋から始まっていく。律法学者、ファリサイ派の人々からではなく、教養も何もない一介の漁師から弟子に選ばれていくのです。これは偶然ではなく、私はむしろそういうところにこそ、聖書のメッセージがあると思うのです。

(4)「主よ、御心ならば」

 次にこの重い皮膚病の人が何をしたかを見てみましょう。
「すると、一人の重い皮膚病をわずらっている人がイエスに近寄り、ひれ伏した」(12節)。
 この人は主イエスの姿を見るなり、近寄ってきたのです。私が言ったことを思い出してください。この人は健康な人を見かけたら、どうしなければならないのでしたか。近寄ってはならないのです。むしろ退かなければならない。それが律法の定めていたところであります。この人は律法違反をしています。おそらく周りの人々、弟子たちが制止するいとまもなく、走り寄ったのではしょうか。だからこの人の病気の体を見て、逆に周りの人が跳び退いたのではないでしょうか。そして主イエスに向き合い、ひれ伏して言いました。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2節)。
「御心ならば」というのは、原文に即して言えば、「あなたが欲しさえすれば」と言うことです。英語の幾つかの聖書を見ますと、"If only you will," "If you choose," "If you want," というように訳されていました。つまり「私が清くなれるかどうかは、あなたがそれを望まれるかどうか、あなたの意志にかかっています」ということです。
 宗教改革者ルターは、この箇所の説教で、こう語ったそうです。「この病人が『主よ、御心ならば』と言った時、その御心について何ら疑うことはなかった。自分がいやされるということについても、何ら疑うことがなかった。」
 私たちもしばしば「御心ならば」と祈ります。しかしそう祈る時に、果たしてこの病人と同じように主を信頼しきっているでしょうか。むしろ逆のことが多いのではないでしょうか。どうして「御心ならば」という言葉が出てくるかと言えば、自分の祈りに、実はそれほど期待していない。「こんなこと言ってもきっとだめだろう」と思いながら、「御心ならば」という言葉が口をついて出てきてしまうのではないでしょうか。こういうのを「だめもと祈り」と言います。しかし自分の迷いも疑いもひっくるめて、神様のもとに赴き、一切を主に委ねてイエス・キリストのもとに立つ。それが信仰であります。宗教改革者ルターは、この重い皮膚病人の姿の中にそういう信仰、私たちの模範となるような信仰を見いだしたのでした。
 私たちは今日、臨時教会総会を開いて、会堂改修工事についての協議、決議をしようとしています。どこに神様の御心があるのかを、謙虚に問う心の備えをしておかなければならないでありましょう。それと同時に、この重い皮膚病の人と同じように、「主よ、あなたが欲しさえしてくだされば、あなたにはそれがおできになります」という思いで、総会に臨みたいと思っています。

(5)「よろしい、清くなれ」

 そうしたこの病人の大胆な信仰に対して、一体何が起こったでしょうか。さらに驚くべきことが起きました。誰もが近づくのもいやがる重い皮膚病です。先ほど言いましたように、この時恐らく他の人はみんな跳び退いたことでしょう。しかしその中でたった一人退かず、逆に手を差し伸べて、この病人に触れた人がいました。それがイエス・キリストです。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」(13節)。
 イエス・キリストは、実は誰かをおいやしになる時、必ずしもその人に触れられたわけではありません。この後に出てくる「百人隊長のしもべのいやし」(ルカ7:1以下)に至っては、触れないどころか、見てもいません。代理として主イエスのところにやってきた百人隊長の話を聞いて、遠く離れたところから、ただ一言、おっしゃっただけです。イエス・キリストにとっては、それで十分なのです。
 それでは一体どうして、イエス・キリストは、わざわざこの重い皮膚病の人に手を差し伸べて触れられたのでしょうか。イエス・キリストも後ろに跳び退きながら、「清くなれ」と叫ばれれば、よかったのではないでしょうか。
 私が言いましたことをもう一度思い起こしてください。この人の深い傷はどこにあったのでしょうか。それは単に体の病気のことではありませんでした。誰からも無視される。誰も自分のことを人間扱いしてくれない。自分が歩けば、みんなが自分を避けて通る。誰も触ってくれない。自分でも「近づかないでください」と叫ばなければならない。そこにこそ、この人の本当の深い傷があったのではないでしょうか。この人にとって、誰かに触れられるということが、どれほど大きな意味をもっているかを、イエス・キリストはよく知っておられました。イエス・キリストは、この人に手を置くことによって、その深い傷をいやされたのです。
 「よろしい」という言葉も、忠実に訳せば、「私は確かにそれを欲する」「私は確かにそれを選ぶ」となります。"I do will." "I do choose." それは、重い皮膚病人の「もしもあなたがそれを欲しさえしてくだされば」という願いに呼応しているのです。「そうだ。それが私の意志だ。清くなれ。」

(6)「誰にも話してはいけない」

 イエス・キリストは、この人に「誰にも話してはいけない」(14節)と、厳しく命じられました。どうしてでしょうか。イエス・キリストはたくさんのいやしの奇跡をなさいました。しかしイエス・キリストは、そのことのもつ危険性も十分に承知しておられたのだと思います。いやしだけが一人歩きすれば、多くの人がどうにもならない位押し寄せたでしょう。もっとも主イエスは、それを用いて伝道することもできたかも知れません。そうしたら十字架にかかって死ぬこともなかったでありましょう。そのまま「本物のメシア誕生だ」と持ち上げられて大宗教になっていったことも想定できます。今日でも、不思議ないやしを見せて、信者を獲得していくという宗教はたくさんあります。
 ブラジルでは、キリスト教の中においてさえも、そういう教派をたくさん見てきました。伝道集会をテレビで放映して、牧師が「イエス・キリストの名によって立ち上がれ」と言えば、それまで歩けなかった人が立ち上がって、歩き始めるのです。私は、そういうのは何かインチキ臭いと思います。私は奇跡としてのいやしを否定はしません。確かに神様の力が、今ここに介入すれば、そういうこともあるでしょう。神様にとってそんなことは何でもないことでしょう。
 しかしそれを人に見せるために、あるいは人を集めるために用いてはならないし、主イエスもそんなことはなさらなかった。そこで根本的な思い違いが思ってくるということを、イエス・キリストはよくご存知であったのだろうと思います。
 しかし、この重い皮膚病をいやしていただいた人は、主イエスが厳しくお命じになったにもかかわらず、言ってしまったのでしょうか。ルカ福音書では、そのあたりのことは書いていないのですが(マルコ1:45参照)、彼が言わなかったにしても、重い皮膚病がいやされたというのは一目瞭然なわけですから、「一体どのようにして治ったのだ。イエスという人が不思議な力でどんな病気でもいやすそうだ」といううわさが広がったのでしょう。それにより一層多くの人が、イエス・キリストのいやしを求めて集まってくることになります。しかしイエス・キリストは、ここでも「人里離れた所に退いて祈」られました(16節)。いやしの奇跡が、自分にとっても、人々にとっても誘惑となるということを見抜いておられたのでありましょう。

(7)スキンシップの重要性

 ブラジルではスキンシップが豊かです。会うたびに抱き合います。頬をすり寄せて3回キスをします。それが日常的なあいさつです。日本に帰ってきてそれがないのが、物足りないですね。下手にやると「セクハラ牧師だ」と言われそうですから、控えております。でも私は体の触れ合いというのは大事だと思います。そのぬくもりというのは残ります。みなさんも抱き合うのはともかく、せめて握手くらいしてくだされば、うれしいです。
 イエス・キリストは、私たちのことを思い、最もよいことを備えてくださるお方です。私たちもこの人のように、そのイエス・キリストのよき意志を信じて、そのもとに飛び込んでいく信仰をもち、大胆に歩み始めたいと思います。


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